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 一瞬で心の奥まで侵入してくるような艶めきと、そして恐ろしさのある声だった。

 リズレッドが声の方向へ顔を向けた。声は上空から聞こえた。夜空を後ろに従えるように漆黒の翼をはためかせて宙に浮かぶ女性がそこにいた。


 その瞳は全てを写すが、なにも写していないようにも見えた。ロックイーターにかけた言葉でさえ無情と言えるほど平坦で、感情の機微など微塵も感じられなかった。だがリズレッドは、それが誰であるのかだけはすぐにわかった。彼女から漏れる死の香りと、そして血の臭い。歴戦の戦士だけが嗅ぎとれる異形の魔物だけが放つそれを、夜天の女性は盛大に放出していたからだ。


「――メフィアス」


 気づけばその名を呟いていた。

 ロックイーターに放った勇猛な声音ではなく、ただ畏怖するような口調で。

 過去に同種の魔物と対峙した経験のある彼女は、相手の持つ力を、底は見えぬともおおよそは理解できていた。

 そう、一年前に自分を完膚なきまでに敗北させた、六典原罪の一人、アモンデルトとメフィアスは、全く同じ臭いを放っていた。


「あら?」


 まるでいま気づいたとばかりにメフィアスは天空からリズレッドを見下げた。

 しかしその瞬間、彼女の目が煌々と輝いた。つまらない石ころの中に、ダイヤが紛れているのを偶然見つけたような、歓喜とも狂気ともつかぬ色だった。

 リズレッドの全身が総毛立ち、ただ見られただけだというのに萎縮して震えだしそうにさえなった。アモンデルトのときとは違う、ねっとりと絡みつくような恐怖感だった。


「まさか、こんなところで会えるなんてねえ」


 手を当ててくすりと笑いながら、メフィアスは高度を下げて、やがて地に降りた。

 ロックイーターさえもが萎縮し、彼女の後ろへ下がる。知能の低い魔物でも、本能的に直感するのだ。『名無し』と『名有り』の、歴然とした力と、支配力の違いを。


「あなたはエルダーの生き残りかしら? それとも他の大陸から渡ってきた他派閥のエルフ?」


 社交場で初めて会った相手に歩み寄るような、気品と品位を感じる歩調でメフィアスはリズレッドに近づいた。

 一歩距離が詰めらるたびに、死神が鎌をもたげて忍び寄ってくるような恐怖が襲いかかる。


「――っ」


 あまりの息苦しさに苦悶の顔を作りそうになり、それを寸前のところで抑えた。

 ウィスフェンドの存亡もあるが、それ以上にメフィアスは魔王直属の配下で、つまりは祖国エルダー神国を滅亡させた当人の一人だった。

 体を支配せんと侵食する恐怖を、怒りを込めて振り払った。


「私はエルダー神国騎士団の副団長、リズレッド・ルナーだ。お前を討つ日をどれだけ夢見てきたか……ここで、我が王の無念を晴らす」


 白皙の剣を掲げて名乗りをあげる。

 エルダーに連綿と受け継がれてきたその剣は夜間の闇にすら侵食されないような純粋の刀身をメフィアスに向けるが、それすらも彼女は意に介した様子は見せなかった。


「それは妖精族に伝わる宝剣ね? クリスタルと同じく、神が創った権能の武器――だけど、残念。あなたはまだ使いこなせてはいないようね」

「なんだと……!」

「その証拠に、ほら」


 ついに至近距離まで寄ったメフィアスは、面白がるように自らに突き立てられた刀身を摘むと、つつ、と刃渡りを人差し指で撫でた。愛しいものを愛でるような手つきで滑らせた指が、剣先から柄へ渡り、やがてリズレッドの眼前に到達する。


「……!?」


 目の前で開示されたメフィアスの指を見て、彼女は驚愕した。信じられない物を見た。全く傷がついていなかった。血どころか、軽い切り傷程度も見受けられない。乙女の柔肌を思わせる人差し指が、ただ当たり前のように完全な姿でそこにあった。


「これがあなたの実力よ。わかるかしら? 人間がどんなに努力をしたところで、魔物のステータスを超えることは困難。それが私のように魔王様から名を授けられた者が相手なら、不可能と言ってもいいわ。そんなあなたが宝剣を装備したところで、子供が木の棒を振り回す児戯にしかならないということよ」

「――だ、黙れ……っ!」


 リズレッドはたまらず叫び声を上げながら、今度は渾身の力で白剣を横一閃した。刀身に炎が宿る。ラビに継承した本家本元の灼炎剣が、熱を孕んで悪魔を穿たんと迫り、


「どう? これでわかったかしら?」


 親指と人差し指でつまみ上げられて、その軌道を停止した。


 渾身の一振りが造作もなく無力化され、まるでゴミでも摘まみ上げるように扱われた。彼女は心の芯から寒気が発せられるのを感じた。自分が信じて突き進んできた鍛錬の成果が、魔物に薄ら笑いを浮かべられながら摘み取られていくような感覚があった。

 だがそれは、すでに歩んだ道だった。アモンデルトに徹底的に尊厳を奪われたあのとき、彼女はこれをすでに体験していた。そして、


「ふっ」


 気づけば笑みが溢れていた。不敵な笑いではない。とても懐かしいものを思い出したときに溢れる、郷愁の念が篭った笑みだった。

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