第954話 「爪齧」
「あの女……あの女……何も知らない癖に、何も知らない癖に……」
ブツブツと爪を噛みながら歩いているのはフェレイラだ。
かなり苛立っているのか動く度に枢機卿の法衣の装飾が派手に揺れる。
「気持ちは分かるけどそれぐらいにしておきなさい」
彼女を窘めたのは隣を歩くマルゴジャーテだ。
フェレイラは苛立ちと困惑の混ざった視線をマルゴジャーテへ向ける。
その目は微かに潤み、様々な感情が渦を巻いているのが一目で分かってしまう。
それを見てマルゴジャーテは内心でどうした物かと悩む。
フェレイラ・グエン・ジャニス・ベールジンシュ。 少し前に交代したばかりの第七司教枢機卿。
それ故に未だ枢機卿としての心構えが足りていない部分がある。
前任者との交流があったマルゴジャーテは不慣れなフェレイラを放っておけなくて何かと世話を焼いていたのだが、思った以上に手のかかる娘ねと内心で苦笑。
フェレイラは権能に対する適性が高かった事もあり、候補の中から選ばれはした。
だが、前任者の急逝で急遽決まった後任と言う事もあって、内面での未熟さが目立つ。
元々、気弱な性格な少女で人の輪に入る事も得意ではなかった事もあり、孤児院では孤立しがちだったらしい。 友達もおらずに陰気な日々を過ごしていたフェレイラには忘れられない者がいた。
モンセラートだ。 短い間だったが、彼女には忘れられない相手だった。
当時、モンセラートは枢機卿に内定しており、出て行く間際ではあったのだが、彼女は一人で膝を抱えているフェレイラを放っておけなかったのか彼女が同年代の子供の輪に入れるように取り計らってくれたのだった。
人によっては余計な事とも取れるような行いだったが、フェレイラにとってはその後の孤児院生活を劇的に変えた出来事となる。
結果、フェレイラにとってモンセラートは忘れられない恩人となったのだった。
――とはいっても当のモンセラートはそんな事はすっかり忘れているが。
そんな事もあり、フェレイラにとってモンセラートという先達は彼女にとって非常に大きく、枢機卿という立場へ志す大きな切っ掛けとなった。
「あの女はまったく分かっていない。 馬鹿なんじゃないかしら……死ねばいいのに死ねばいいのに……」
爪を齧りながらフェレイラは陰気に呟く。 それを見てマルゴジャーテはやや引き気味の視線を向けつつ溜息を吐く。 彼女も本国から出て行く前に数度だが言葉を交わした事はあったので、モンセラートの人となりは何となくだが掴んでいた。
別れてからそれなりに時間が経っているので心変わりする可能性はなくはないが、少なくともマルゴジャーテの見た限りでは簡単に裏切るようには見えなかったので、フェレイラと同様に困惑が強い。
確かに状況だけ見ればモンセラートは聖剣エロヒム・ギボールを売ってアイオーン教団に鞍替えしたとも取れるだろう。 いや、どう見ても裏切以外の何物でもないように見える。
――そう見えはするのだが、不可解な点も多い。
まずはモンセラートとアイオーン教団の接点だ。
仮に彼女が裏切ったとしよう。 手引きをして聖剣を引き渡し、ウルスラグナへ向かった。
流れとしてはそんな所だろうが、どうやって接触したのかが疑問だ。
ウルスラグナはモンセラートの任地であるアラブロストルの遥か北方。
途中には小国とは言え隣国であるフォンターナと広大な魔物の領域であるアープアーバンがある。
枢機卿という肩書こそ持っているが彼女は戦士ではない。 自力での突破は不可能、ならばどうやって連絡を取ったのだといった疑問が自然と湧き出してくる。
だが、結果的にモンセラートはアイオーン教団に身を寄せている以上は何かが起こった事は確かだ。
「エウラリア枢機卿が裏切る訳ないのに……彼女の信仰心も知らない癖に知らない癖に……」
――信仰心、ね。
ブツブツと尚も陰気に呟く、フェレイラを横目にマルゴジャーテは考える。 裏切っていないとしたら彼女は連れ去られたと言う事になる。 だが、その後に起こったウルスラグナの内乱に参加したという話が本当なら、過程こそ不明だが最終的にはグノーシス教団に背を向けた事になる。
マルゴジャーテもモンセラート程ではないが、それなりに長い期間を枢機卿として過ごしているので、モンセラートがそうした行動に走った事に対する理由には察しがついてしまうのだ。
「もしかしたら嫌になってしまったのかしら……」
隣にフェレイラには聞こえないように口の中で呟く。
枢機卿としての務めを真面目に果たせば果たすほどに見えて来るものがある。
それは同じ司教枢機卿の入れ替わりだ。 自分より年上の枢機卿が次々と居なくなり、定期的に顔触れが変わる。 何故、そんな事が起こるのかと考えれば、自分達が教団にとってどの程度の価値なのかにも察しがついてしまうのだ。
マルゴジャーテはモンセラートと近い時期に枢機卿となった身だった事もあり、自分より年上の枢機卿がいなくなってしまった事も知っていたので、そろそろ自分の番かとも悟っていた。
任期を終えた枢機卿の姿を見たといった話は聞かない。 尋ねた所で「信仰に殉じた」と答えられるだけだろう。
――もしかしたら彼女は自らの運命を変える為に動いたのかもしれない。
具体的な経緯は不明だが、モンセラートが新しい道を切り開く為に歩き出したというのならマルゴジャーテはそれを非難する事はないだろう。
恐らくそう長い時間は残されていないのも理解しているので、死ぬ前に自由になりたかったのかもしれない。
そう考えると公の立場で言うなら非難せざるを得ないが、個人的には素直に祝福しようと考えていた。
自分と同じ境遇の者が決められた道を外れ、違う運命を切り開いたのだ。
敵として現れれば戦わざるを得ないが、これでよかったのかもしれない。
――願わくば自分も枢機卿ではなくマルゴジャーテという一人の人間として……。
内心で首を振る。 意味のない考えだった。
そして表には出せない考えでもあった。 周りの者達はどんな理由があっても裏切は裏切、許さないと罵る者が大半だ。 フェレイラは悪い意味でモンセラートを神聖視しているので、裏切だったとしても信じないだろう。
願わくば彼女とモンセラートが出会う事のないように。
マルゴジャーテはそう祈らずにはいられなかった。
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