第914話 「影現」
ムスリム霊山での事件。
思い起こせばあれから何かが動き出したような気がすると彼女は思い返す。
そこで遭遇した異形の存在。 戦いの中で天使の憑依に成功した自分。
――そして権能。
あの事件は様々な物をクリステラに齎した。
中でも最も大きな出来事は異形に触れた時に逆流した記憶を垣間見た事だろう。
異なる人生、異なる価値観。 それは彼女の頑なとも言える信仰に亀裂を入れる程の衝撃だった。
恐らくこの一件がなければ今の彼女はあり得なかっただろう。
信仰に揺らぎは発生せず、イヴォンと出会う事もなく、ただひたすらに何も考えずグノーシス教団に尽くすだけの存在となり果てていたのは間違いない。
――それがどれだけ愚かな事かも気付かずに。
クリステラは今でも考える。 イヴォンと出会わなかった自分を。
少なくとも今この場には居らず、かつて起こった王都での騒動で命を落としたかそのまま本国へ引き上げられ変わらない日々を送っていたのか……。
ただ、少なくとも無味乾燥な人生であった事は間違いないと言い切れる。
黙々と教団のみを信じ、自分の頭では何も考えない流されるままの人生。
もしかしたらそれはそれで幸せなのかもしれない。 楽と言う意味でだが。
あの事件に遭遇した事を手放しでは喜べないが、自分を見つめ直すと言う意味では良い機会だったのかもしれないと受け入れてはいた。
結果、イヴォンと出会い、自らの信じる道を見出し、グノーシス教団に反旗を翻す事で自らの意思で立ち上がる事が出来たのだ。
その後に続くアイオーン教団の立ち上げ、聖女ハイデヴューネとの出会い、苦労は多かったが教団の立て直しと息つく暇もない程の目まぐるしさだった。 だが、それはクリステラにとっては今までの人生の中で最も充実した時間といえる濃密な日々だった。
軌道に乗った所で戦力拡充の為にマネシアと共に聖剣を得る旅。
そこで手に入れた聖剣エロヒム・ギボールと新しくできた友人――モンセラート。
活発で明るい彼女はクリステラにとっては掛け替えのない友人となった。
――だが、そこに至る為に切り捨てた者も多い。
ジョゼとサリサ。 クリステラにとっては最初で最後の世話役の聖騎士見習いの娘達。
ジョゼは陽気な笑顔が魅力的で、常に周囲を励まし、明るくしていく娘だった。
サリサは物静かだったが、事務仕事があまり得意ではないクリステラに代わり様々な雑務を片付け、陰から彼女を支えてくれた。
そんな彼女達が辿った末路は酷い物だった。
サリサはムスリム霊山で負傷した自分を逃がす為に囮となり命を落とした。
ジョゼに至っては必死に励ましてくれていたというのに、その気遣いに全く気が付かずに文字通り邪魔だと切り捨てたのだ。
あの時はそうするしかないとも思ったが、今思えばもっとやりようはあったはずだった。
急いでいる、余裕がない事を言い訳に安易な道に逃げ込んだのではないか?
少なくとも彼女を救える可能性は皆無ではなかった筈だ。
――教団の都合で動くお人形。
ジョゼがクリステラに放った言葉は楔のように彼女の心に陰を落とす。
恐らく、その言葉を忘れる事は永遠にないだろう。 それ程までに深い心の傷だった。
今でも思う。 ジョゼは決して悪い人間ではなかった。 もしかしたら自分が上手く立ち回れば今でも供に居てくれたのではと夢想した事も一度や二度ではない。
だが結局、クリステラはその可能性を掴み取らず目の前の事にばかりかまけて記憶の片隅に追いやる始末。
切り捨てるどころか忘れかけていたのだ。 そして最悪の形で過去と向き合う事となった。
辺獄の領域――バラルフラーム。 そこで彼女は変わり果てたジョゼと再会する事となった。
もう彼女は意思の疎通すら困難な有様で、斬るしかなか――いや、と内心でクリステラは首を振る。
これも逃げだ。 結局、楽な方法を選びその結果、彼女を処分する事で状況の解決を図った。
悔やんでも遅いのは分かってはいるが、ジョゼとサリサに関しては後悔の念しかない。
だからこそ今のクリステラは焦っていた。 刻一刻と弱って行くモンセラートの現状に。
自分が傍に居なければと自惚れた事を言うつもりはないが、せめて傍に居たいと考えるのは間違っているのだろうか? その答えすらも彼女には分からなかった。
ふうと小さく溜息を吐いて空を見上げる。
現在は日も落ちているので暗く、雲が多いので月光も陰りより一層、闇の深さを増していた。
既に魔物の討伐も済ませ、明日の朝には念の為の確認後、王都へと引き上げる手筈となっている。
皆、それぞれ休んでおり、野営地には警戒の為に起きている者達や焚火を囲んで談笑している者達が遠目に見えた。
落ち着かずに散歩を兼ねて付近を見回っていたが、少し離れすぎたようだ。
そろそろ自分も休むべきかと踵を返そうと――
「――どなたですか?」
――する前に近くの木陰にそう声をかける。
「これはこれは、見抜かれていたとは驚きました」
そんな返答と共に空間から滲み出るように一人の男が現れた。
灰色の外套にグノーシスのエンブレム。 軽鎧や装備の感じから聖騎士ではないと即座に判断。
間違いなく隠密行動を主とする者達。
「審問官ですか」
「御明察です。 流石は聖堂騎士殿」
審問官。 それはグノーシス教団の裏を担う者達。
表沙汰にできないような事件のもみ消しや邪魔者の排除、背信者の捕縛や
魔法道具などで気配を消していたようで、この距離まで気配に気が付かなかった。
意識を集中すると他にも居る事が分かる。 全部で十から十五。 距離を空けて伏せている可能性もあるので倍はいるかもしれないと警戒。 無言で聖剣に手をかける。
「おっと、お待ちください。 戦う気はありません」
審問官は戦意がないとばかりに両手を挙げる。
クリステラはその態度に不穏な物を感じてはいたが、何の意味もなく現れたとは思えない。
「私に何か?」
まずは相手の出方を見るべきだろうと判断。 どちらにしても判断材料が足りないので、相手から話を聞くべきだろう。
「まずは自己紹介を。 私はエイジャス。 エイジャス・コナー・ラオスと申す者で、グノーシス教団で審問官をさせて頂いております。 元々はウルスラグナで任務に当たっていたのですが、見覚えはありませんか?」
「覚えていませんね」
即答する。 そもそも審問官との接点は殆どなかったのでエイジャスの言葉が本当だったとしても道や施設内ですれ違った程度の事だろう。 少なくとも顔に見覚えはなかった。
エイジャスは残念といわんばかりに小さく肩を落とす。
「それは残念。 まぁ、元々影が薄い事は自覚しているので、仕方がありませんね。 さて、これ以上、余計な事を言っても斬られそうなので用件を先に伝えるとしましょう。 こうして声をかけたのは貴女にとって損のない話があるからですよ」
この時点で非常に胡散臭かったが、内容を聞かなければ始まらない。
クリステラは無言で話せと先を促した。
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