第749話 「夕暮」
日が沈み、夜が訪れ、今日という日が終わりに向かおうとしていた。
「……今日も異常なし、か」
アイオーン教団聖堂騎士ゼナイド・シュゾン・ユルシュルは遠く――遥か東へ視線を向けていた。
彼女が今いる場所はユルシュルとウルスラグナの国境付近に存在する砦。 そこに建てられた物見櫓の上だ。
使用していた視力強化の魔法<
彼女の仕事はユルシュルとの窓口兼攻めて来た時の備えだ。
その名前が示す通り、ゼナイドはユルシュルの一人娘であるが、家を出てグノーシス教団へと入信。
持って生まれた才覚と努力で聖堂騎士まで駆け上がり、一角の存在として名を馳せていた。
だが、ウルスラグナ内で起った事件により、国内のグノーシス教団は崩壊。
事件後、彼女達聖騎士は選択を迫られた。 グノーシス教団へ合流するか、アイオーン教団へ鞍替えするかを。
迷いこそしたが、彼女はアイオーン教団へと所属を変える事にした。
ゼナイドはそっと鎧のエンブレムを撫でる。 そこにはグノーシス教団ではなくアイオーン教団のシンボルが刻まれており、自分の立ち位置を再認識させてくれた。
彼女は自身の選択を後悔はしていない。
アイオーン教団の仕事は人手不足と言う事もあってグノーシス時代に比べれば多岐に渡り忙しかったが、彼女は特に苦とは感じなかった。
人が居らず、個々人が頑張らなければ組織が立ち行かない状態は、彼女に自身が必要とされていると強く感じさせたので悪い気がしなかったからだ。
アイオーン教団という場所はゼナイドの承認欲求を満たすには良い場所とも言える。
発足当初は王都で様々な仕事に従事していたが、バラルフラームの一件の後にこの砦が完成したので、ユルシュルへの備えと言う事で相手の事をよく理解している彼女が責任者として選ばれる事になった。
ゼナイドは家族を嫌っており、そもそも家を出たのも彼等と関わる事を嫌ったと言う事もあったからだ。 送り込んだエルマンもそれを理解はしていたのだが、彼女以上の適任者がいないので選ばざるを得なかったと言うのが実情だった。
その点はゼナイド自身も良く理解していたので、エルマンに文句を言おうとは思わない。
確かに彼女は実家と関わる事に強い抵抗があったが、それでもユルシュルの娘だからと言う訳ではなく、任せられる能力があると認められていると感じられたのだ。
だから、精一杯この仕事を頑張ろうと決めた。
「……とは言っても、面倒ではあるな」
ぽつりとそう呟く。 周りに誰もいないからこその愚痴だが、仕事も終わりつつある今ならいいだろうといった僅かな気の緩みからそんな事を口にする。
やる気もあるし手も抜いては居ないが、ほぼ縁を切ったとは言え肉親の相手は余り好きではなかった。
ザンダー・トーニ・ザマル・ユルシュル。
彼女の実の父親であり、ウルスラグナ騎士国初代国王(自称)だ。
物心がついた頃はただただ厳しく恐ろしいだけの存在だった。 ユルシュルは騎士の家系。
その筆頭たる領主の実子たるもの武器に精通していなければならないと、幼い頃から徹底的に武器の扱いを叩き込まれた。 短剣に始まり、剣、槍、斧、変わった所ではメイスや棍のような物まで一通り学ばされる。
彼女にとって特に苦手だったのは剣だった。 一口に剣と言っても様々な形状の物が存在し、扱いもそれぞれ違って来る。 その為、幼い頃の彼女には剣は種類があって面倒臭いといった印象だったのだ。
――ただ、最終的に彼女の最も得意とする武器が細剣となったのは訓練の賜物だろう。
結果的にではあるが、覚えた技能は彼女の人生で最も役に立っていると言うのは皮肉かもしれない。
父親はとにかく厳しかった。 幼い娘であろうと容赦なく過酷な訓練を課し、定めた結果を出さなければ烈火のように怒り狂う。 母親も何度か諫めたが、当然ながら聞き入れずに寧ろ態度は硬化した。
最初は恐ろしいとしか感じなかった父親だが、歳を重ねる内に徐々にだがその正体が見えて来る。
彼女が実の父親に抱いた感想は幼稚。 これまでの人生を腕力だけで切り拓いて来たので、基本的に全てにおいて力押しだ。 それは子育てにも該当する。
思い通りにならなければとにかく殴る蹴ると暴行を働くのだ。
まるで殴られたくなければ結果を出せと言わんばかりに。 兄と弟も同様の教育を受けているので、父親には決して逆らわない。
子供の頃から刷り込まれた恐怖は絶対的な忠誠心として根付いているからだ。
特に兄は決して父親に逆らわずに、ひたすらゴマを擦る卑屈な小物に成り下がった。
大方、父が死んだ後は自分の天下とでも思っているようで、内心では嫌っていてもご機嫌を取る事は止めない。
その為、ゼナイドの兄は父親にとって非常に都合のいい存在として仕えている。
性格は小物ではあるが父親の悪い部分はしっかりと受け継いでいるので、自分より格下の存在にはひたすら強気で直ぐに手が出る劣化複製品と化していた。
恐らく代替わりすれば、全く同じ教育方針で全く同じように子供を育てる事になるだろう。
それはユルシュルという家が長年かけて積み上げた負の連鎖。
最初こそ彼女は変えようと思っていたが、余りにも話が通じないので早い段階で諦めてしまったのだ。
ゼナイドが家を出る最後の一押しとなったのは母の死だった。
彼女にとって家で唯一の味方にして甘えられる存在で、何かあれば庇ってくれたのも母だ。
元々、近隣領から身売りに近い形で嫁に来たので、夫婦間には愛情はなく子供達は父親の洗脳教育の所為で母を惰弱と軽視する傾向まであった。
娘と母はお互いが味方で、お互いが信頼できる存在だったのだ。
その母ももう居ない。 長年の精神的疲労で痩せ細り、死に顔はどこか安心したように安らかだった。
母親が居ない以上、ゼナイドにとってユルシュルは家でも何でもなくなったのだ。
帰るべき場所を失った彼女は早々に出奔して一人で生きて行く事を決めたのだった。
――とは言っても彼女は武芸に生きて来た身。 最終的には武で身を立てる事になり、聖騎士と言う地位に落ち着く事になったのだが……。
あれからそれなりの時間が過ぎ、再会した肉親は彼女の悪い意味での期待を裏切らずに全く変わらなかった事に少し安心しつつ、ゼナイドはアイオーン教団とユルシュルの窓口としての務めを果たす事となる。
とにかくユルシュルは横柄――と言うよりは非常に厚かましく、何か言って来た時は大抵は碌でもない要求なので強気な対応で突っぱねている。
お得意の力押しが効かないので、ひたすら同じ要求を喚き散らすだけの兄を冷めた目で追い返すのが恒例になりつつあった。
ここ最近は多少の学習をしたのか下手に出る事を覚えたようで、頼み方に変化があったが要求自体は変わらないのでゼナイドの態度は変わらない。
恐らく失敗続きで父親の機嫌を損ねているので必死なのだろうと彼女は考えていた。
「そう言えば最近はこないな」
心底、どうでもいい事なのでとくに意識していなかったがここ最近、兄が現れない。
ユルシュルの動向に不穏な物があると聞いているので、少し注意した方が――
不意にゼナイドの眼が異変を捉えた。
視線を向けると夜の闇に紛れて何かが近づこうとしているのを感じる。
嫌な感じがしたので持っていた通信魔石で即座に部下に連絡を取り、ゼナイドは直接指示を出すべく物見櫓を急いで降りて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます