17.朝日の涙(1)

 泣きじゃくりながら、ゲートを走る。

 ――何も考えられない。


 出口から光が溢れている。私は思い切り飛び出した。

 目を開けると、真っ白な空が目に飛び込んだ。光が眩しい……。

 下を見下ろす。

 ……三百六十度、海……その中の、小さな大地。


「……これは……」


 夢で見た――あの島だ。

 でも、あのときとは違って……人々の姿は見えない。

 荒涼とした山がすぐ目の前に立ちはだかっていて、邪魔をしている。


 私は崖に足をつくと、再び高く飛び上がった。

 けれど……。


「きゃっ!」


 空に見えない壁があって……私は激しくぶつかり、弾き返された。

 山肌に叩きつけられそうになり、慌てて防御ガードする。


「ったー……」


 その下の、崖が少し出っ張った部分が視界に入った。

 私はくるりと身を翻すと、どうにかその場所に舞い降りた。

 足の裏が、ジャリッとした感触を捉える。


 そうか……部屋から、何も考えずに飛び出したから……。

 私は自分の格好を見回した。Tシャツに半ズボンという部屋着姿のままだ。足も素足だし。

 スリッパを履いていたと思ったけど、どこかで落としてきたのかも。


 上を見上げる。何の変哲もない――白い空だ。

 やっぱりここは、パラリュスのどこかなのかな……。

 背後には山がそびえ立っている。山の向こう側がどうなっているのかは、ここからは見えない。

 目の前には……遥か彼方まで海が広がっている。


 ――ねぇ、ユウ。ここは……どこだろうね。

 また……怒られるかも。そんな格好で飛び出して、って……。


「……っく……」


 涙がボロボロこぼれて……私はその場にしゃがみ込んだ。


 怒ってよ。無茶する私を止めてよ。

 ユウがいなくなったら……私は……!


 ――もし俺が本気で、朝日に傍に来てって言ったら……絶対すぐに来て。どこにいても。何をしていても。――それだけ覚えてて。


 ねぇ、ユウ。どんな気持ちでそう言ったの? 

 そのときって……自分がいなくなるときってことじゃないの?

 最期のそのときまで、言わないつもりだったの?

 どうすればいいの? 知らないふりをすればいいの?

 私は何を、頑張ったらいいの?


 何も見えない。何も考えられないよ。

 ――ユウ……!


 ここがどこかはわからないけれど――私が望む、独りで思い切り泣ける場所。

 そう、思えた。




「――誰だ」


 急に、低い男の人の声が頭の上から聞こえた。まぎれもなくパラリュス語だった。

 見上げると……黒い翼をはためかせた、黒い長い髪に浅黒い肌、黒ずくめの服の、頭から角を生やした男の人が、宙に浮いたまま私を見下ろしていた。

 緋色の瞳が、異様にギラギラしている。


「……」


 私は茫然としてその人を眺めた。

 夢で見た人だ。異形の……絵本で見る悪魔のような姿をしている……。

 翼から黒い羽根がひらひらと落ちてくる。……私は両手を出して受け止めた。

 ふわりとした感触が、手の平に伝わる。

 ――夢じゃない。


「どうやって入りこんだ。まさか……その出で立ちで、神の使者ではあるまい」

「ご、ごめんなさい」


 私は涙を拭うと、慌てて立ち上がった。ペコリと頭を下げる。


「泣く場所を……独りで泣ける場所を、探していて……」

「――女とは……みな、隠れて独りで泣く生き物か?」

「え……」


 その人は溜息を漏らすと私の隣に舞い降りた。背中の翼が、すっと消えた。

 夢では二メートル以上ある大男だったけど、実際にはそこまで大きくはなかった。……ユウと同じぐらいかな。


「……っ……」


 思い出して……私はまたボロボロと涙をこぼした。


「ごめん……なさい……もう少し……」


 両手で顔を覆う。男の人の、少し戸惑ったような気配が伝わった。

 だけど……その人は、そのまま何も言わなかった。私を気遣う訳でもなく、どこかに去っていく訳でもなく、ただただその場所に居続けていた。


   * * *


「――なぜ泣く。……母も、そうだった」


 だいぶん時間が経って――私の涙も涸れた頃、その人がポツリと言った。


「母……?」

「わたしに隠れて泣いていた」

「……それは、そうね。私も……暁にこんな姿、見せられないもの」

「何故だ」

「情けないしみっともないし……何より、暁を悲しませるからよ」

「……そうか」


 私はずずっと鼻を啜ると……遠くの海を眺めた。


「――ここは、どこ?」

「どこと言われても……わたしの国だが……」

「あなたしかいないの?」

「この山の向こう――人間たちが暮らしている。わたしには関係ないがな」

「……?」


 意味が分からなかった。『わたしの国』なのに『関係ない』?


「私は、朝日。あなたは?」

「何がだ?」

「何って、名前に決まってるじゃない。私の名前は朝日、というの。あなたの名前は?」


 私が言うと、その人はかなり驚いたようで、物凄い形相で私を見た。

 緋色の瞳が、やけにぎらぎら光って見える。

 姿形は怖いけれど……不思議と、何も感じなかった。

 最初は、夢で見た時の印象と同じで『空虚感が漂っている』と思ったぐらい。

 だけど目の前のこの人は、さっきまでとは違う明らかに何かの火が心に灯ったような、少し熱っぽい瞳になっていた。


「……ドゥンケ」

「ドゥンケ、ね」

「もう何千年も……その名を呼んだ者はおらぬ。だから、忘れていた。名前があることすら……」

「――――え?」


 一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 何千年って……え?


 私がぽかんとしていると、ドゥンケが少し溜息をついて

「アサヒはどこから来たのだ」

と言った。


「ここは誰も――ヒトは、立ち入ることも出ることも叶わぬ場所だぞ」

「ヒトは……」

「神の使者か?」

「えっと……」


 ここはパラリュスには違いないと思うけど、ゲートとかミュービュリとかの話をしても意味がなさそう。


「ドゥンケは出入りできるの?」

「できぬ。神でもヒトでもないわたしは、未来永劫この地で過ごすがよい、と言われた」

「言われたって、誰に……」

「神の使者だ」


 神の使者……。それって三女神の使者かな……。

 でも、どの国でもそんな存在は伝えられていなかったし、それにこの島のことなんて……。


「神の使者って……」

「昔――まだわたしが幼い頃、神々の住む天界から現れた」


 ドゥンケが白い空を指差す。


 天界から……ということは、三女神とは別の神だ。

 三つの国に何も伝わってないのも、当然かも。


 ふと、さっきのドゥンケの台詞に引っかかりを感じて――私はまじまじとドゥンケを見つめた。


「神でもヒトでもない……?」

「うむ」

「じゃあ……さっき言っていた『母』というのは?」

「とうの昔に死んでいる。人間は、死ぬ生き物だ」

「……!」


 不意にユウのことを思い出して、私はまたボロボロと涙をこぼした。


「……まだ泣くのか……」


 ドゥンケが呆れたように呟いている。


「だって……私の……大事な人が……」

「死んだのか?」

「まだ死んでないわよ!」


 思わず言い返すと、ドゥンケはますます呆れた顔をした。


「まだ死んでないのにどうして泣く? 死んでから泣け」

「……」


 何てこと言うのよ。

 一瞬そう思ったけど……はた、と気づいた。


 もう十分泣いた。

 ユウは、生きてる。ユウが生きている間にしてあげられることは、まだまだたくさんある。

 一緒に生きている……この時間を、大事にするべきなんじゃない?


「ドゥンケ……」

「何だ」

「……いいこと、言うね」


 涙を拭ってちょっと笑うと、ドゥンケはかなり戸惑った顔をした。


「今度は笑うのか。ヒトは、忙しい生き物だな」

「……そうよ」


 私は真っ直ぐに正面を見つめた。果てしない……海の彼方。


「誰かのために、笑ったり、泣いたり……頑張ったり、怒ったり……忙しい生き物なの」

「……そうか」


 ドゥンケはこくりと頷いた。

 何千年も生きているという割に、まるで子供のようだ。何も知らない。


「ねぇ、この島にもヒトはいるんでしょ?」

「いる。山の向こうに」

「ドゥンケは話をしたことがないの?」

「話?」


 ドゥンケは考えてもみなかったようで、相当驚いた顔をしていた。


「何故だ?」

「何故って……えーと……」


 こうまっすぐ聞かれると答えようがないな。


「じゃあ、わたしの国って言ってたけど……」

「そうだ。わたしと母のために造られた国だ」

「誰が造ったの?」

「神たる父だ。天に還って……戻って来ない。使者を寄こした――だけだった」

「……」


 それでお母さんは泣いていたのかな……。

 二人は、神に捨てられたんだろうか。

 でも、どうして閉じ込める必要が……。


 神の考えなんて高次元過ぎて私には分からないけど、何だか理不尽な気はした。


 でも、とにかく……ドゥンケはこの場所で、ヒトとも関わらず、たった独りで生きているんだ。

 ただ毎日、淡々と。

 この先も……永久に、そうやって過ごして行くのかな……。


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