16.ユウの涙(2)
「すみません……」
俺は顔を上げると、歯を食いしばった。取り乱しそうになるのを必死に堪えた。
瑠衣子さんは俺から身体を離すと、俺と同じ目線でじっと俺の顔を見つめた。
……けれど、何も言わない。俺の言葉を待っているのだろう。
「あの……俺は、3年前に目覚めることができたけど……」
「……ええ」
「その……もうフェルティガエとしては限界が来ていたみたいで……フェルティガの老化が始まっているんです」
「老化……」
呟くと、瑠衣子さんはちょっとハッとしたようだった。
――ヒールのことを思い出したのかもしれない。
禁術を一人で使ったヒールは、身体があっという間に老化して老人になってしまった。
カンゼルの資料の通りなら、ヒールは「身体の老化」を引き起こしたんだろう。
そして資料の通り……俺をミュービュリに送り出し、そのせいで急速に衰えてから……1年以内に死んだ。
ガラスの棺に入ったけれど、結局止められなかった。
何人ものフェルティガエを犠牲にして作られたこの資料は……残念ながら、真実を教えてくれる。
「……だから……俺は……」
「……」
「……あと……長くても……2年……ぐらい……で……」
「え……」
「――すみません……!」
俺は瑠衣子さんに深く頭を下げた。
俺の土下座に、瑠衣子さんが慌てたように俺の両肩を掴んだ。
「どうしてアオが謝るの!」
「……朝日が……泣いてる。多分……どこかで……独り……」
俺はもう一度深く頭を下げた。
「約束……したのに。すみません……!」
「だから、どうしてアオが謝るの!」
瑠衣子さんが泣きながら俺の頭を抱えたのがわかった。
「一番、辛いのは……アオなのに……!」
「……」
「……このことね。あなたは……私に、このことを伝えに来たのね」
「……」
俺は黙って頷いた。
喉が引き攣れたような……嫌な感じだ。声が出ない。
「――朝日は……あなたの身体が心配だとは言っていたの」
やはり……そうか……。
「だから……これを読んで……朝日は……今のあなたと同じように、真実に気づいて……咄嗟に逃げだしたの……ね」
「逃げだした……?」
ふと引っかかりを感じて、俺は顔を上げた。
瑠衣子さんは俺から手を離すと、そっと自分の涙を拭った。
「家に帰ってきて……靴はあったから、朝日がまた書斎に閉じこもって夢中になっていると思って、二階に上がったの。そしたら……何だか扉の向こうから風が吹いたような、変な感じがして……驚いて扉を開けたら、あの状態だったの」
「……」
「だから、てっきり……誰かに攫われたのかと思ったの。私に姿が見られないように慌てて……。でも……違うのね。朝日は……自分で自分を攫ったんだわ」
自分で自分を……。
「……早く……見つけ出さないと……」
「待って!」
フェルティガを使おうとした俺を、瑠衣子さんが必死に腕を掴んで止めた。
「ここであなたが力を無駄遣いしたら、意味がない!」
「だって……!」
「帰ってくるわ。自分でケリをつけて……帰ってくる」
「でも……」
「私の娘よ。信じて」
俺の腕を掴む瑠衣子さんの手の熱さ、まなざしの強さに……俺は黙って頷いた。ふっと身体の力を抜く。
「ねぇ……アオ」
瑠衣子さんは俺の腕から手を離すと……両手で俺の右手を握りしめた。
温かい……。フェルティガエではないはずの瑠衣子さんから、何かが伝わってくる。
不思議な感覚だった。
これが……母の愛情というものなのだろうか。
「私は……ヒロと一緒に……いたかったわ」
「……」
「ヒロに守られてばかりじゃなくて……私がヒロを……守りたかった。最期の時も……私が見届けたかった。――本当に」
「瑠衣子さん……」
「アオ……お願いよ。暁だって、もう小さな子供じゃないわ。あなたは独りで闘う必要はないの。朝日に……私たちに、甘えてちょうだい」
「甘えて……?」
「……ええ」
瑠衣子さんはにっこりと微笑んだ。目尻に残っていた雫がほろりと零れ落ちる。
「直接あなたを助けることはできないかもしれないけど……でも、あなたのためにできることが、きっとある」
その瞬間――ヒールの最期のときのことが蘇った。
――どうして俺の記憶を封じちゃったんだ! 俺がもっと早く思い出していれば……まだ、何か……ヒールのためにできたかもしれないのに……!
泣きながらぶつけた、ヒールへの言葉。
悲しかった。
何も気づいていなかった――何もしてあげられなかった自分が、悔しかった。
同じ思いを……朝日や暁にも、させてしまう……?
「ねえ、アオ……あなたは、どうしたいの……?」
瑠衣子さんが俺の手をぎゅっと強く握った。
その途端……喉の奥につっかえていたものが、取れたような気がした。
何かが決壊して……涙が溢れる。
「俺……は……ヒールの軌跡を……残したいです」
「……ええ……」
「今……書いてる……絶対に書きあげて……暁に残したい」
「……」
「それが……俺とヒールの……生きた証……だから……」
「……他には……?」
「あと……テスラの……闇……晴れて……」
「……」
「……ソータさんの旅を……最後まで……見届けたい……」
「……そうね」
「それで……その間も……その時も……最期まで……」
「……」
「……朝日に……傍に……いてほしい――」
溢れた涙で……瑠衣子さんの顔が見えなくなった。
俺はそのまま……うずくまってしまった。
* * *
涙が止まった頃には……俺の心も、少し落ち着いていた。
暁にはどう言おうかと悩みながら、書斎の扉を開けると……すぐ傍に、真っ赤な目をした暁が立っていた。
「聞こえた?」
と聞くと、暁は黙って頷いた。
瑠衣子さんは暁の顔を見ると「二人で話しなさい」と言って自分の部屋に入っていった。
その後ろ姿を見送ると、俺達二人は黙ったまま、暁の部屋に入った。
暁はベッドにボスンと乱暴に腰かけて……深い溜息をついた。
「……朝日さ。何回も話しかけてるけど……通じない」
「……繋がっては……いる?」
「ううん……遮断されてる。前に、夜斗兄ちゃんが言ってた。朝日が本気で拒絶してしまったら、どうしようもないんだ。朝日の力……強いから」
「……」
俺は黙って暁の隣に座った。
「でも……オレも、朝日を信じてる。……落ち着いたら帰ってくるよ」
「……わかった」
今すぐじゃなくていい。
俺は朝日を、テスラに連れて行きたい。
本当は……ミュービュリのこの家で、暁と瑠衣子さんとも一緒に暮らしたかった。
でも、それじゃ……ヒールのこともソータさんのことも、投げっ放しになってしまう。
そんな無責任なことはしたくなかった。
それに……俺の老化のことは、まだ他の誰にも言いたくない。
口に出してしまったら、俺自身が……諦めてしまうような気がするから。
「オレは……ここで暮らす。テスラに行っても……何したらいいかわかんないし」
――長い沈黙のあと……暁がポツリと言った。
「……そっか」
「それに……ばめちゃんだって淋しがるから。あ、でも!」
そう言うと、暁は立ち上がってクローゼットを開けた。首を突っ込み奥から何かを取り出す。
そして再び俺の隣に座ると、「これ!」と言って手にしたものを俺に見せた。
……それは、円筒型のフェルポッドだった。
「これ、あるから。いつでもテスラに行けるし。だから……」
「――わかってる」
俺は暁の言葉を遮ると、ぎゅっと暁を抱きしめた。
俺が暁も連れて行ってしまったら……どうしたって、朝日は独り残された瑠衣子さんのことを気にしてしまうだろう。
でも、暁が瑠衣子さんの傍にいれば……いつでも連絡が取れる。
何かあっても、朝日ならすぐに帰れる。
多分……暁が言いたかったのは、そういうことだろう。
「瑠衣子さんのこと……よろしく頼む」
「……ユウの……馬鹿……」
暁の声が少し滲んでいた。
「だからオレ無茶するなって言ったのに……キエラ要塞に突っ込んじゃうしさ……」
「……うん」
「仕事、仕事って全然平気な振りしてさ……」
「……そうだね。でも……フェルティガを使わない限りは平気だしね」
「そうじゃないよ! 心がって意味だよ……!」
「――そうだね……」
暁は自分の両目を擦るような仕草をすると、キッと俺を睨みつけた。
「オレは、修業を頑張る。水那さんを助けて……テスラの闇が片付く頃には、ユウが驚くぐらいのフェルティガエになってみせる」
「……楽しみにしてる」
「そしたら……ユウの本、引き継げるよね?」
「……どうかなー……」
「何でだよ!」
俺は立ち上がると……暁を見下ろした。
13歳……来年には、14歳になる。
そしたら、ミズナさんを助けて、ソータさんと共にテスラの闇を祓い……パラリュスは平和になるんだろう。
そのときまで……何があっても、生きていたい。
「暁は……どんな子を好きになるんだろうね?」
「……は?」
意表を突かれたらしく、暁が間抜けな声を上げた。
「今……何でそんな話?」
「無関係じゃないからね。暁……力は、自分だけのためには、百パーセント引き出すことはできないんだ」
「……」
「自分のためだけに力を使おうとすると……暴走して、自滅する。誰かのために使うときが――一番、威力を発揮するんだよ」
「……覚えとく」
「うん」
俺は背伸びをした。
「じゃあ……瑠衣子さんに、挨拶してくる。帰るから……暁、そのあと頼むね」
「えっ!」
暁は眼を見開くと慌てて立ち上がり、俺にしがみついた。
「ちょ、ちょっと待っ……朝日は!? 連れて行くんじゃないの!?」
「それは、また今度ね。今は……一度テスラに帰るよ」
「でも……と、とにかくちょっと待って!」
暁はそう言うと、乱暴にドアを開けて
「ばめちゃーん、ユウが帰るって!」
と廊下に向かって叫んだ。
暁とは違い――瑠衣子さんは落ち着いた様子で現れた。
「朝日が帰って来たとき、俺がいたら……朝日は素直な気持ちを吐き出せないかもしれない。だから……今は、このまま帰ります」
「……わかったわ。朝日のことは、私に任せて」
瑠衣子さんの返事に、暁が慌てたように「ばめちゃん、いいの!?」と叫んだ。
俺は瑠衣子さんに向かって深くお辞儀をした。
……そして、ゆっくりと……暁の方に向き直る。
「……暁。今度――改めて、朝日を攫いに来るから。……待ってて」
「……」
暁はしばらく考え込んでいたが……やがて渋々頷いた。
「わかった。まだ朝日に連絡が取れないし……確かに、時間は必要かも……」
「……よろしく」
「じゃあ……やるね」
暁がフェルポッドの蓋を開ける。
黒い穴が開いたが……暁が
「まだ駄目!」
と言って俺を止めた。
「……どうして?」
「いや……これ、ウルスラとオレの部屋を繋ぐ
「じゃあ、どうやって……」
「今見たこれを真似して、今度はオレが発動するの。……以下、その繰り返し。シャロットの手紙がヒントになって思いついたんだ」
「……なるほど……」
そうか……トーマと違って、暁は連続で使えるからか。
しかしシャロットと暁が組むと、怖いものなしだな。
じーっと暁を見つめていると、暁が不思議そうな顔をした。
「……ん? 何だよ」
「――いや……」
「……? まあ、いいや。忘れないうちに、いくよ?」
「ああ」
暁が意識を集中する。拳に力が漲るのがわかる。
「――はっ!」
暁の右手の拳が空間に叩きつけられ……真っ黒な穴が広がった。
「瑠衣子さん……ありがとう。――またね、暁」
「ええ」
「――うん!」
俺は二人に笑いかけると、すぐに穴に飛び込んだ。
真っ暗闇の中、漂いながら……俺の頬が温かく濡れていた。
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