第23話 雅 5

 指が目の前ですぱっと飛んだ。

 何かスローモーに血の糸を引いて、宙にあるのが見えた。


 切った包丁の持ち主は、私の首を抱えている。

 切られた指の持ち主は、足元でうずくまっている。



 何?



 何が起きたの?



 男が私の頬で、血を拭う。

 血の匂いが鼻につく。



 刃の部分が細く長い柳刃包丁。

 私の身体に触れれば、容赦なく切り裂く凶器。


 嫌だ嫌だ嫌だ。死にたくない。

 男がぎゅっと私の首を締めてくる。


 嫌だ。逃げられない。逃げたい。誰か。助けて。



 目の前に真琴がいた。

 男の右手にしがみついている。

 男は右手を振るが、真琴は掴んで離さない。


「ちぃっ」


 男は私を放り出した。テーブルに当たって、ジュースやバーガーと一緒に床に倒れ込む。


 何? 何が起こったの?


 じたばたと床を這っていると男が真琴の髪を掴んでいる。

 真琴は相当痛みを感じているのだろう。

 涙目になりながらも、必死で包丁を持つ右手にしがみついていた。


 そして、意を決したように、手に噛み付いた。

「うぎゃああああ」

 男は包丁を取り落した。

「このお!」

 怒りにまかせて、男は真琴を放り投げた。



 そのまま、カウンターにぶつかっている。



「雅! 逃げて!」



 そんな声が聞こえた。

 そうだ、逃げなきゃ。

 どこへ?


 どうやって?



 床を這いずり回る。



 すると、大人が近づいてきた。

 女の人。


「こっちへ」



 抱きかかえて誘導してくれる。



 いや、あたしは、でも、真琴が。



 男がカウンターを乗り越えるのが見えた。

 叫び声。物音。金属の衝撃音。そして、悲鳴。


 警官が飛び込んでいくのが見えた。



 そして一際大きな破裂音。



 拳銃の音?



「ま、真琴は? 真琴は?」


 私は女の人の手を振り払って、カウンターへと向かう。



 そこには、機械を背に、へたり込んでいる真琴がいた。



 涙目だった。



 目が合った。

 涙目のまま、にこっと笑った。



 私の目からも涙が溢れた。





 警察の取り調べみたいなものがあったけど、とりあえず質問に答えていれば、それでよかった。

 お母さんが迎えに来たのは、ちょっと閉口したけど。



「無事でよかったわ。お父さんも心配していたのよ。今日は早く帰ってくるって言ってたわ。本当に怖いわよね、今は。包丁持った通り魔が、ハンバーガー屋さん襲うなんて、この国はどうなっているのかしら。警察も警察よ。子どもたちが集まるのだから、きちんと警備すればいいのに。そもそも、通り魔なんて、さっさと撃ち殺しちゃえばいいのよ。そのために拳銃持っているんでしょう。雅もどうして、そんな危ないところに行くの。お母さん、心配で心配で仕方ないのよ。ずっとお家にいるわけにもいかないのだけど、危険なところにでかけていっちゃ駄目なのよ。でも、もし智哉がハンバーガー屋さんでアルバイトしようって言い始めたらどうしようかしら。世の中本当に……」



 本当にうるさいよね、



 心配するなら、ちゃんと心配してくれないかな。

 あたしはここにいるよ。

 ここにいるんだよ。



 警察署を出ると、そこに真琴がいた。

 大人の人と何か話している。

 真琴はすでに両親も家族もいない。

 死に別れたって言っていた。

 ついでに、悪魔に魂を売って、美少女になった変態さんだ。

 だから、保護者は市の児童相談員になっていると言っていた。


 目の前にいるのが、その相談員なんだろう。



 でも、その変態さんは、私を助けてくれた。



 あそこで、真琴が包丁を持った腕にしがみついてくれていなかったら、どうなっていただろう。

 私は、今、ここで生きているんだろうか。



 真琴と目が合った。



 そうだ。

 ちゃんと話さなきゃ。



「お母さん、私の友達、真琴っていうの」

「まあ、そうなの」



 真琴が頭を下げて自己紹介した。


 お母さんにちゃんと友達を紹介したのって、初めてかな。

 楓は紹介したっけ?


 お母さんは、ちょっと浮かれ気味に、真琴を食事に誘っている。



 何となく、それを見ているのが嫌だった。

 真琴は、私のお母さんをどんな風に見るんだろう。



 こんなお母さんをどんな風に見るんだろう。



 そう考えると、ちょっと目が合わせられなくなった。


 いつの間にか、来週の土曜日、うちに来てもらって、一緒に食事をすることになっていた。



 あ、そうだ。

 私の部屋、ちゃんと掃除しておかなきゃ。



 何となく、そんな思考が迷走していた。

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