8-5 ゾーニングは規制か/「自由を守る」側面からのゾーニング必要論
この章の最後に、本論にも盛んに投げかけられた言葉、ゾーニングが規制であるという主張を扱う。
だが、実のところ、そもそもこの問いは論理的に誤ったものである。というのも、本論におけるゾーニングは、公から性暴力表現を排除するという行為を指しており、命令主体については一切言及していないからだ。
とはいえ、ここまでの議論を順を追って読んだ読者なら、私の主張が容易に予想できるはずだ。
ゾーニングでも、命令主体が権力であるならば規制の一種である。一方、そうでないなら規制ではない。
そして、重要だが言及してこなかったこととして、私はおおむね規制に否定的であり、ゾーニングも基本的には民間団体の自浄として、つまり規制ではないかたちで達成されるべきだと考えている。
「おおむね規制に否定的」というのは、やむを得ない規制があることも重々承知しているからである。例えばヘイトスピーチ規制法がそれにあたる。
あらゆる規制は、一般に、市民の権利を守り、権利侵害を防ぐために作られると理解されている。だが、常にそうとは限らない。権力は常に市民の権利を制限する機会を狙っており、正当な理由のある規制にも無駄なものを放り込もうとする。ヘイトスピーチ規制法で、ヘイトスピーチが「本邦外出身者に対する差別的意識を助長し~」などと珍妙な定義を与えられたのもそのためであると私は推測している。
それはともかくとして、規制がなくとも問題が解決するならそれに越したことはないという点は、あらゆる人の同意が得られるだろう。だが、現実はそうではなく、権力による規制がなければ解決しない問題が大量に存在する。
そのひとつに性暴力表現を加えたくはない。故に、私はゾーニングを、権力によらない自主的な対処が必要だと主張するのである。
仮に、権力侵害に晒される女性からなされるゾーニングの要求を無視し続けたとしよう。この要求を無視するのも、表現者の自由である。だが、無視したところで権利侵害が消えてなくなるわけではない。
純然たる事実として権利の侵害があるが、表現者や業界は自ら解決しようとしない。であれば、権利を侵害されている者がとりうる手段はひとつである。国に訴え出るのである。性暴力表現を、それがどのようなかたちになるかはともかく、規制してくれと。
もちろん、このような要求をする人々は、この副作用を重々理解している。だからこそ、まず表現者の自主解決を求めたのである。が、それでは解決しないならやむを得ない。そのことを知らぬのは表現者ばかりである。
もちろん、国は素直に問題を解決する気はない。喧々諤々の議論ののちに提出される規制案には、余計なものが張り付いている。それが、表現者の自由を縛ることになる。この規制は、自主的な解決を求められているうちに対応しておけば、存在しなかったはずのものである。
こうなる前に、表現者は他者の権利を踏みにじらない努力をすべきである。その表現を開陳する場所くらい慎重に選ぶ程度の努力は必要であろう。
そうでなければ、ゾーニングが本当の意味で規制と化してしまうことになる。
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