第7章 親の子供を監護する権利と義務としてのゾーニング要請

7-1 親の監護権侵害としての性暴力表現

 さて、ここからは第6章を書き終えてしばらく経ったタイミングでの執筆になる。

 本論は第2章で、性暴力表現が現在の女性への人権侵害であることを論じた。また、第3章では性暴力表現が将来の女性への人権侵害であることも論じた。


 特に第3章に関連して、第7章でもうひとつの観点を提示したい。

 それは、性暴力表現が、親が子供を監護する権利、および義務を侵すものであるという視点である。


 どのような時代であれ、親が子供の健全な成長を願うのは当然の権利である。また、後述するように、それは親の義務ですらある。


 従来より、「表現の自由」を重んじる人たちは、この問題を親のしつけの問題に矮小化してきた。仮に子供が性暴力表現に触れ、悪影響を受けて重大な結果を残したとしても、それは表現に責任があるのではなく、親のしつけや監督が悪いせいである。というように。


 しかし、現状のように性暴力表現が社会にあふれていればどうだろうか。性暴力表現の悪影響については第3章で論じたように、限定的であるが確実に存在する。そのような表現が、それこそ第2章で論じたように、悪いことであるという但し書きなしに流布し、子供はその表現を受容する。


 たいていの場合、子供は親の言うことを聞かないものである。また、子供は親と過ごす時間よりも、学校や友人同士と過ごす時間のほうが多く、その傾向は性的に成熟する十代中盤から後半にかけて増す。自身の子供時代を振り返ってみれば容易に想像できるように、このころの子供にとって最も影響力があるのは親ではなく、同年代の友人や先輩である。


 このような状況下で、その最も影響力を持つ存在である友人や先輩から、性暴力表現が、それが悪いことであるという注釈なしにもたらされたらどうであろうか。いや、注釈なしであればまだよいほうで、そのような性暴力行為を是とする風潮が、その友人集団内でもたらされる可能性すらある。


 このような懸念のもとに、親が、子供が性暴力表現に触れないようにある程度のコントロールを欲するのは当然ではあるまいか。というのが本章の視点である。つまり、親としての監護権を最大限発揮するために、性暴力表現が野放図に頒布され入手可能である現状を改善するのは妥当な主張ではないかという視点である。


 もちろん、親の子供に対する監護権には限界がある。子供の目の前を通る、ありとあらゆる表現をコントロールできるわけではない。その点に関しても追々論じることにする。しかし、第1章などで述べたように、公に性暴力表現が開陳されているというあまりにも酷い状況を改善するように訴えるには十分であろう。


 親の監護権を持ち出してゾーニングを正当化する試みは、いささか根拠が薄弱に見えるかもしれない。第2章と第3章の議論とは異なり、監護権は悪影響を受ける主体と、権利を持つ主体が別個であるためだろう。


 だが、本論ではすでに、ゾーニングがなぜ必要なのかという点に関しては十分議論を尽くしたと考えている。故に、監護権からゾーニングを論じる議論は補助的なもの、読者に議論の新たな視点を与えるものと理解していただければよい。

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