6-4 献血ポスターのその後

 6-1で論じた献血ポスターについて、2020年の2月に、第2弾のキャンペーンの内容が公表された。その内容は、第1弾に対する批判をおおむね反映したものとなっていた。


 しかし、ネット上の反応を見るに、その2つの区別がついていない人々が相当数いるようである。そこでここでは、いささか不毛な感じを覚えつつ、この2つの内容の差異を検討することで、いったい何が問題とされたのかを改めて明らかにしたい。


 まず確認だが、第1弾のポスターは、キャラクターの胸部を強調した、性的強調表現にあたるものだった(性的強調表現を広告で使用すること一般の問題は第5章で論じた)。その強調の度合いは、少なくともオタクカルチャーから見ればさほどのものではなかっただろうが、掲示場所が駅構内であったことや、広告を使用したのが公的な側面を強く含む団体である赤十字であったことを考えれば、不適切であったと言わざるを得ない。


 一方、第2弾ではポスターの掲示は取りやめられ、書き下ろしの漫画を使用したクリアファイルを配布することになった。


 まず、この形式の変更が問題の解消に貢献しているといえよう。というのも、第5章で述べたように、性的強調表現が広告に使用されることの問題は、その多くが「表現が公に使用されること」に拠っている。裏を返せば、表現を開陳する場所が、公から離れれば問題は減じる。


 次に、表現の内容を検討しよう。第1弾とは異なり、第2弾の漫画はストーリーのあるものであった。ストーリーは、後輩女性のキャラクターが先輩男性を「いじり」つつ、献血に関連する話題を述べるというもので、献血事業とのコラボとして相応しいものに仕上がっている。


 また、女性キャラクターに対する表象も変化している。第1弾のポスターでは胸部をイラストの中央付近に配置し、かつ不自然な服の描写をすることで強調をしていた。また、表情も相手に対し媚びるようなニュアンスを含むものとなっていた。


 一方、第2弾ではそのような不自然な服の描写や表情は一切ない。また、批判への配慮なのか、物体によって胸部に対する視線を遮るようなコマも多い。このような配慮が、表現を「胸部を強調して描いている」という解釈を事前に防いでいる。


 ここで注目すべきなのは、胸部を覆い隠す表現が使用されているということである。漫画の1コマ目ではそうなっていないように、強調表現を避けるために必ずしも胸部を隠さなければいけないわけではない。本来、わざわざ隠さずとも、強調しない表現は可能である。


 そうではあるのだが、表現の主たる受容者が「胸を描くこと」と「胸を強調して描くこと」の区別ができない人々であると想定されるのであれば、やむを得ない措置であったと言わざるを得ない。


 というのも、表現に対する解釈というのは、受容者の大勢の解釈によって、ある程度流動的に決定される側面があるからである。仮に、客観的に明らかに胸部を強調していない表現であったとしても、受容者の大半(ここではオタク集団)が強調表現として解釈し、消費するのであれば、表現者はそう消費されることを前提に表現しなければならない。


 そうなれば、性的強調表現として消費されることが相応しくない、あるいは希望しない場面での表現は、ことさらそういう解釈をされないように気を払って、念には念を入れた表現をしなければいけなくなる。つまり、例えば物体によって物理的に視線を遮るといった表現を使用することを、表現者は受容者によって「強いられる」のである。


 ここに見られるのは、皮肉なことだが、受容者の無理筋な表現理解が、かえって表現者の表現の幅を減じているという過程である。受容者が、「胸を描くこと」と「胸を強調して描くこと」の区別をできる人々であれば、表現者はわざわざこのような配慮をせずともよかったのである。


 なお、このキャンペーンに関して、奇妙で無理のある反論がいくつか見られたのでついでに言及しておく。


 まず挙げるのは、第1弾のポスターはスケジュールの都合から単行本の表紙を流用するかたちになったとか、第2弾が書き下ろしになるのは予め決定されていたというものである。


 私を含む大半の者は、キャンペーンの内実を知る由もない。が、仮にこの指摘の通りだったとして、それらの理由は批判を回避するものにはならない。なぜなら、ポスターはそのような内実を離れ、それ単体で人々に提示され解釈されるものだからである。


 仮に、スケジュールの都合だというのであれば、第1弾のポスターには、より強調の度合いが低かった単行本第1巻の表紙を流用すればよかったのである。また、第2弾の書き下ろしが既定路線であるという指摘は、場合によっては作者の批判に対応する能力を低く見積もった態度であると言えよう。


 また、第1弾のポスターが単行本の表紙であったことに言及し、出版物として不適切とされなかったものが、ポスターとして不適切であるという理由がわからないという指摘もあった。


 これに関しては、すでに第5章で述べている。加えれば、献血事業には、民間企業よりも、ともすれば公的な行政機関を凌駕するほどの、高い倫理性が求められることを指摘しておこう。


 かつて献血は、血液の提供者に現金あるいはそれに類するものを報酬として支払っていた。しかし、そのような報酬が血液提供者のモラルを低下させ、問診に対する虚偽の回答を誘発し、結果として重大な病原菌を含むなど危険な血液を他者に献血することとなった。B型肝炎など献血由来の感染症が相当数あったのはこのためである。


 ゆえに、献血は、血液を集めることが困難になるというリスクを負うにもかかわらず、血液提供者の募集を純然たる善意のボランティアに求めなければならないという事情がある。この観点から、そもそも「コラボキャンペーン」自体が不適切であるという批判もある。


 そういう事情から、献血事業に求められる倫理性は、少なくとも民間企業のそれをはるかに上回る。民間企業で批判されなかったものでも、献血事業であれば批判されるということは当然起こりえるのである。


 最後に、漫画の作者が献血事業に協力する理由を挙げるものがある。が、これに関してはいちいち論じる必要があるとも思えない。キャンペーンに関するスケジュールの都合が、批判を回避する理由にならないのと同じで、作者の思惑は表現の不適切さを回避する理由にはなりえない。


 ここまでに述べたように、第2弾の内容は批判を十分に反映したものであった。しかし、それでもなお指摘しなければならない点が2つ存在する。


 1つ目は、そもそも第1弾のごとき「失態」は、容易に回避できるはずのものであったという点である。第2弾の「挽回」がいかに素晴らしいものであっても、それは「挽回」の域を出ないものである。その点を忘却し、第2弾の内容を手放しに称賛する振る舞いには疑問を覚える。


 前述のように、赤十字はその活動において高い倫理性を求められる。なぜ「容易に回避できるはず」の失態を犯したのかという点を、しっかりと省みる必要がある。


 2つ目は、そもそも『宇崎ちゃん遊びたい!』とコラボする必然性が皆無であったという点である。

 なるほど確かに、第2弾の内容は良いものだった。しかし、それはいわば「おいしい料理ですが、ハンバーグに蛸を入れる理由はなかったのでは?」と言うようなものであった。


 第2弾の表現は性的強調表現ではないが、しかし、元々の作品が「胸の大きい女性を消費する」側面の強い要素を含むという文脈を持つことは事実である。それは作品単体では問題とならないだろうが、性的強調表現として理解されたくない場面での表現を行う際には極めて不利な要素となる。「性的強調表現として消費」することが前提の作品を、場面が変わったからと言って急にそうではないように理解するのはなかなか困難だからである。


 献血事業の性質を考えれば、コラボする作品の選定それ自体を慎重に行う必要があるといえるだろう。例えば、『はたらく細胞』のように、モチーフが体の構成要素である作品ならばおあつらえ向きといえるし、献血の理念も誤解なく伝わるコラボに仕上がるだろう。

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