第73話 湖畔の乙女の裸体

 

 少し肌寒い早朝。太陽はまだ昇っていない。

 暗い夜が明け始め、空が紫色になり、だんだんと明るくなっている。

 目が覚めてしまった俺は、多くの女性たちが眠るベッドを抜け出して、気配を消し、一人で散歩に出かける。

 護衛する近衛騎士の脇をすり抜け、静かな森の中へと足を踏み入れた。

 薄っすらと靄がかかった森の中。ひんやりとする空気が肺を満たし、スッキリとして気持ちいい。

 睡眠で凝り固まった身体を伸ばして解す。

 確かこの先に湖があったはず。水が綺麗なことで有名な湖だ。

 しばらく木々が鬱蒼と茂る森の中を歩いて行くと、急に視界が開けた。

 目の前に広がる大きな湖。清らかで透明な湖の水。湖面に朝靄がかかって幻想的な光景だ。

 俺はボーっと見惚れてしまう。

 そこに、顔を出した太陽の光が降り注ぎ、更に神秘的な景色になる。


「………綺麗だ」


 深く深呼吸して、朝靄がかかった澄んだ空気を吸い込んだ。

 少し残っていた眠気が吹き飛んだ。シャキッと完全に目が覚める。

 冷たそうな透明な水で顔を洗おうとしゃがみ込んだ時、朝靄の奥でチャポンと水が跳ねる音がした。断続的にチャプチャプと音が聞こえ、ユラユラと揺れる波紋が伝わってくる。

 一気に警戒心を跳ね上げた。

 気配は探っていたが、敵意は感じられない。水辺に近づいた魔物ではないらしい。

 目を瞑って気配を読む。更に精度を上げる。


 ………んっ? これは人か?


 人らしき気配を感じる。少し離れた湖畔だ。

 俺は気配を探りながら、息を殺し、朝靄に包まれながらゆっくりと近づいていく。


 ―――そして、俺は言葉を失った。


 水の音をさせていたのは、美しい女性だった。それも裸の。

 朝靄がかかる湖に綺麗な女性が裸で沐浴をしている。一枚の絵画になりそうなくらい神秘的で美しい光景だった。

 俺には背を向けている赤い髪の女性だ。傷やシミ一つない綺麗な背中。しなやかな身体にくびれた腰回り。形の良いお尻にスラリと伸びた足。身体からわずかに放たれる禍々しい黒いオーラ。それが逆に女性の妖艶さを際立たせている。

 透明な湖の中に浸かり、その美しい身体に水をかけている。

 どうやら水浴びをしていたようだ。

 湖畔の乙女は俺に気づかない。

 俺の目が彼女のお尻に注目してしまう。確かに綺麗な形の美尻だが、右のお尻にタトゥーのようなものがある。


 ………………ヴァルヴォッセ帝国の出身者か?


 ドラゴニア王国の隣国で、長年争い続けているヴァルヴォッセ帝国では、身体のどこかにタトゥーを入れる風習がある。

 それに、彼女のタトゥーに刻まれているのはグリフォンだった。

 鷲の翼と上半身、ライオンの下半身を持つ魔物だ。滅多に存在せず、知能も高いことから幻獣とも呼ばれ、崇められている。

 そのグリフォンは《龍殺しゲオルギウス》を英雄とするヴァルヴォッセ帝国の国章にもなっている。

 タトゥーにグリフォン。おそらく彼女はヴァルヴォッセ帝国の出身のはずだ。

 まあ、それがどうかしたのかと言われても、別になんもないんだけどね。

 最近は小競り合いがあるくらいで、ギスギスしながらも国交はある。帝国出身者もこのドラゴニア王国では珍しくもない。

 俺は立ち尽くしたまま水浴びをする裸の乙女を眺め続けていた。


 ―――ピシッ!


 俺の足元の小枝がと小さく音を立てて折れた。

 水の音だけがする静かな空間に、枝が折れた音が異様なほど大きく響き渡った。

 水浴びをしていた赤い乙女がハッと振り返る。


「誰っ!?」


 振り向きざまに魔法を放つ女性。水の塊が俺めがけて飛んでくる。

 俺は咄嗟に腕を振り、全ての水弾を消し飛ばした。魔法の威力はそれほどなかったようだ。

 魔法の全てを無効化し、ホッとしたところで、俺は再び言葉を失った。

 振り返って固まっている湖畔の乙女。驚きすぎて前を隠すことも忘れている。驚いているのは俺もだけど。

 手で覆いつくせるくらいの大きさの形の良い美乳に、露わになっている秘密の花園。曲線を描くしなやかな身体に透明な水滴が伝って落ちていくのがとても艶めかしい。

 大人びた顔立ちは整っており、ジャスミンやリリアーネに匹敵する程の美貌だった。年齢は俺より若干年上くらい。二十歳前後だろう。

 髪は赤く、長い。そして、彼女の瞳は燃える紅榴石ガーネットのような綺麗な赤色だった。


「えっ? ………………きゃぁっ!?」


 睫毛が長い瞼をパチパチとさせて、顔を爆発的に赤くさせたかと思うと、小さく可愛らしい悲鳴を上げ、両手で胸と股を隠して湖の中にしゃがみ込んだ。

 俺に背を向けるが、湖の水は透明なので、彼女のしゃがんだ後姿が丸見えだ。


「す、すいません!」


 咄嗟に背を向けてその場から立ち去ろうとするが、即座に女性によって呼び止められた。


「ま、待って!」


 少し傲慢というか、意志が強い印象の綺麗な声だ。

 思わず足が止まってしまう。一瞬振り返ってしまいそうだったけど、何とか堪えることができた。

 小さく震え、恥じらう声が背中越しに聞こえてくる。


「……ねぇ…見た…?」

「………」

「……見た…よね…? 絶対見たよね? 食い入るように見てたよね!?」

「………………ごめんなさい」


 俺は誤魔化すことができないで謝る。

 その直後、後頭部や背中などに衝撃が走る。おそらく、彼女が放った魔法だろう。膝の裏なども撃ち抜かれ、膝カックンされた俺は地面に倒れ込んだ。

 起き上がろうとすると、女性の鋭い声が響き渡る。


「そこで土下座してて!」

「えっ?」

「土下座しろって言ってるの! 今振り向いたら湖に沈めてあげるから!」

「わかりました!」


 俺は女性に背を向けたまま、即座に土下座を行う。ジャスミンのお説教により洗練された俺の土下座。無駄に完璧な綺麗な土下座だ。

 背後でチャポンと水から上がる音が聞こえ、魔力を感じる。魔法で身体を乾かしたらしい。

 衣擦れの音で興奮しそうになるが必死に我慢する。我慢すればするほど、彼女の美しい裸体を思い出して興奮してしまう。綺麗だったなぁ…。

 足音が聞こえ、俺の前に回り込む気配がした。


「もう頭を上げていいわ」


 ゆっくりと頭を上げると、魔法使いの黒いローブを着て、手に杖を持ち、燃えるような紅榴石ガーネットの瞳で俺を睨んでいた。

 再び土下座を行う。


「大変申し訳ございませんでした」

「……はぁ。もういいわ。冒険者をやってたら、いつかこうなることはわかってたから。襲われなかっただけマシよ。水浴びをしていたあたしも悪いんだし…。こんな穢れた身体を見せつけちゃってごめんなさいね」


 俺はガバって顔をあげ、首をブンブン横に振って女性の言葉を否定する。


「とんでもない! とても綺麗だ。身体も紅榴石ガーネットのような瞳も」

紅榴石ガーネットの瞳……確かこの国では瞳の色を宝石で例えるのが最上級の褒め言葉だっけ? まあ、うん…ありがと」


 湖畔の乙女は頬を朱に染めて、紅榴石ガーネットの瞳を恥ずかしそうに逸らした。


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