愛らしい羊は幽霊を噛み砕く

「な、なんだい、こいつは……」

 突如とつじょ現れたひつじに、米飯は困惑している様子だ。

 真っ白なフサフサの体毛が部屋いっぱいに広がり、天井や壁などの隙間を埋めていた。

 そんな可愛らしい羊が口を開いた。


──ブメェェエエェエッ!


 低く、地を揺るがすような恐ろしい咆哮ほうこう──。口の中には黒ずんだ鋭い牙が生えており、まるで肉食獣である。

 そんな凶悪な羊が獲物に選んだのは、どうやら米飯のようだ。狭い部屋の中──羊は牙を剥きながら、米飯へと迫っていった。

「こ、こんなところでやられてたまるかい!」

 米飯は叫ぶと、壁に向かって飛んだ。壁を透過して隣の部屋に逃げるつもりらしい。

 そうすれば、羊が後を追ってこれないと考えたのだろう。

 わざわざ律儀に部屋の扉を開けて入ってきたのだから、羊は壁を透過できない可能性は高い。

「ヒャアッハァッ!」

 ところが、不意に軽快な笑い声が聞こえてきたかと思えば、羊の体毛の中から腕がぬっと伸びてきた。

 おおかみが凄まじい反射神経で飛びながら腕を伸ばし、上半身が壁の中に消えた米飯の足をキャッチする。

 そのままグイッと、米飯の足を引っ張った。

「な、なんだとっ!?」

 米飯は狼の豪腕に逆らうことができず、強引に壁から引きり出されてしまう。

 そんな米飯を、狼は羊に向かって放り投げた。

「ヒュウウッ!」

──羊が大口を開いて待ち構えている。

「ぐおっ! やめてくれぇっ!」

 米飯の必死の命乞いも、羊の耳には届かなかったようだ。


──ブメェェエエェエ!


 米飯が口の中に入ると、羊は口を閉じた。

 そして、モグモグと咀嚼そしゃくを始める。

「ばあさん、俺ぁ先にあの世へ逝って待ってるぜ。すぐに、後を追ってこい……」

 鋭い牙に噛み砕かれながら、米飯は最期にそんな言葉を梅宮に向かって遺した。

──ヒャッハハッハー!

 狼は羊の前で、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら手を叩いていた。


 狼と羊が米飯に構っている今はここから逃げ出す絶好のチャンスであったのだが、僕はその場から動けずにいた。

 そもそも羊の体毛で道が塞がれていているので、園田に憑依状態の今はその横を通り抜けて扉へ向かうことなどできない。


 獲物を狩り終えた羊の視線が、次のターゲットへと移った。

 次に、その矛先は梅宮へと向いた。

「あらあら、おじいさんが消えてしまいましたか」

 そんな羊に物怖じせず、梅宮は呑気に呟いている。

 長年連れ添ったであろうパートナーが先に昇天した割には涙の一つも浮かべていない。

 羊はガチガチと牙を噛み鳴らしながら、梅宮へと近付いていった。

 僕は溜め息を吐いた。

 梅宮は米飯とグルになり、園田やひかりに悪さを働いた人物だ。到底許す気にはなれない。

 それなのに──今にもやられそうな梅宮を目の前にして、僕は黙って見過ごす気になれなかった。

 僕の手には──妖刀がある。

 僕は梅宮の前に立つと、妖刀の剣先を羊へと向けた。

「僕が時間を稼ぎますから、その間に逃げて下さい」

──死神に物理攻撃が通用するかは分からない。

 でも、米飯の言葉を信じるならば、この刀は霊体を切れる刃物なのだ。もしかしたら、死神相手にも効果があるかもしれない。

 二体の死神相手に僕が渡り歩けるとも思えないが、せめて梅宮が逃げられるくらいの時間は作りたいものである。

 霊体の梅宮とは違い、生者の園田に憑依している僕には、羊も簡単には手出しができないはずである。


 逃げることを急かすようために梅宮に視線を送ったところで、僕はふとあることに気が付いて目を丸くしてしまう。

 梅宮の背中にあった刻印の数字が『2』から『1』に変わっていた。

 更に、僕の胸部に刻まれている数字にも変化が起きていて『2』になっていた。

「……どういうことだ?」

 僕が首を傾げたのと同じタイミングで、羊が咆哮を上げる。


──ブメェェエエェエ!


 死神たちは、僕のことなど眼中にないようだ。

 あくまでも狼と羊の狙いは梅宮らしい。

 狼は僕のことなどてんで無視をして、その横を通り過ぎて梅宮に向かって手を伸ばした。

「待て! こっちだぞ!」

 僕は慌てて、刀を振り上げた。

 狼も、まさか自分が霊体から反撃を受けるなどとは思ってもいないようだ。完全に隙だらけの、その狼の長い腕に向かって僕は妖刀を力一杯に振り下ろした。

──が、それは無意味であった。

 刃は狼の皮膚を透過して空を切り、そのままの勢いで床板へと突き刺さった。

「そんな……この妖刀は霊体が切れるはずじゃ……」

 思わぬ展開に、僕は愕然としてしまう。この作戦の肝としていた妖刀だが、死神相手に通用しないのであれば、そこら辺のなまくら刀となんら変わりない。


 動揺している間に、梅宮の体は狼に持ち上げられていた。

「あ……ああっ……」

 怯える梅宮を、狼は容赦なく羊に向かって放り投げた。

──ドクン!

 僕の心臓の鼓動が高鳴った。

──このまま見捨てることなどできない。

 考えるより先に、自然と僕の体は動いていた。

 しかし、脳裏に浮かぶのは無様に散っていった米飯の姿である。

 死が頭を過ぎった僕は、床に横たわらせているひかりに視線を送った。

──相変わらず目を瞑り、安らかに寝息を立てているようだ。

 もう二度と彼女と言葉を交わすことはできないかもしれない──。

「それでも!」

 僕は園田の体から飛び出し、宙を飛ぶ梅宮の体に横から園田の体をぶつけた。衝突したお陰で園田の体に憑依した梅宮の軌道が変わる。

 これで梅宮を救うことができた──。

──が、僕の詰めも甘かった。バランスを崩した僕の視界の先に、大口を開いた羊の姿が写る。

──梅宮を助けたは良いが、代わりに僕が羊の口に向かって飛んでいたのだ。

「うわぁあああっ!」


 僕は鋭い牙の生えた羊の大口の中へと吸い込まれてしまう。


──ウォォオオォオ!


 まるで僕の叫びに呼応するかのように、羊も低く悲鳴を上げたのだった。

 身悶えをしながら、羊はどこか苦しそうにしている。咳き込み、嗚咽を漏らし──そして、僕を口の中から吐き出した。

 羊に異変が起きたことで、部屋いっぱいに広がっていた体毛もシナシナに萎えて隙間を開けた。

 そんな羊を前に、狼はオロオロとするばかりである。

──何が起こっているのかは分からなかったが、これは絶好のチャンスである。

「早く、逃げて下さい! 狙いはあなたですから」

「え、ええ……」

 僕が叫ぶと、呆然としていた梅宮は我に返ったようだ。園田の体から飛び出して、壁を透過して部屋を出て行った。


 僕はすぐさま空いた園田の体に憑依して、ひかりに駆け寄った。

 ひかりの体を抱き上げると、痙攣する羊と狼狽する狼の横を通り抜けて部屋の外に飛び出した。

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