無意識魔法


 高地にあるシビルから、大陸南方の平野部にあるジャイアールまで、朝、陽が昇り始め、空気が温まると舞空術で飛空を始め、夜は野宿かどこかの町に宿泊することになる。


 二日目、北ホラズム、アルナ地方最南部付近の町、その郊外の森の中に、目立たぬようにアグネスは降り立った。

 この名もない町にも有るだろう、名もない宿屋に泊まることにしたようだ。

 神聖教の神官見習いの服を着て、宿泊手続きを終わり、宿の女中が夕食を持ってくる。


「お客様はシビルからですか?」

「そうですが?」


「シビルでは入浴は湯船に浸かるそうですが、このあたりでは入浴はまだ行水で済ませます」

「お食事を済ましたら、お呼びください、お湯をお持ちします」


 ……そうだったわ……このあたりはまだ行水だったわ……昔は私も、行水しかしたことがなかったのに……贅沢なものね……

 いつも一人で行水していたわね……水だったわ……一瞬、はるかな昔を思い出した……


 いつも一人ぼっちで、いつも擦り切れた服を着ていたアグネスに、友達はいなかった……

 貧しかった……ひもじかった……父はいつも私を殴った……母も常に私を罵っていた……


 貧しいと心が荒む……狂ってくる……

 いつも泣いていたわ……あの大きな樹の下で……友達といえば、あの大きな樹でしょうね……


 あまり美味しくもない夕食を済ませ、タライに湯を張ってもらい、行水を済ませると、疲れていたアグネスはすぐに寝てしまった。

 大事な書簡と金銭とを体に巻きつけてだが。


 ただ念の為に、警備の魔法と不可視の魔法を、朝まで発動しておいたのである。

 無意識魔法とも呼ばれるこの魔法は、かなり高度なもので、奉仕の魔女団の中でも少数の団員しか使えない。


 夜も更けて、ドアが音もなく開いた……

「女がいないぞ……」

 押し殺したような声である。

「とにかく金目の物だ」

 別の声がした。


 二人の男が部屋に入ってきた……

 と、突然、動かなくなった。

 警備魔法の内の一つ、金縛術が起動したのだ。

 全身の筋肉が硬直し、無理に体を動かそうとすると激痛が走る。


「誰なの、無理に動くと死にますよ」

 どこからか声が聞こえた。


 部屋のランプに明かりがつき、その中から女が浮かび上がってきた。

 アグネスが不可視魔法を解いたのだ。


 若い男と中年の男が倒れている。

 アグネスが宿の者を呼ぶが、誰も来ない。


 仕方ないので、泥棒をグルグルに縛って帳場に行くと、宿の者が縛られていた。

 どうやら盗賊団が押し入ったようだ。


 とにかくアグネスは、縛られていた者を開放することにした。

「逃げましょう」


 アグネスは大事な仕事がある、こんな所で騒動など起こしたくないのだ。

 皆で町の治安組織の兵舎に駆け込んだ。


「盗賊です、押し入られました!」

 すぐに当直中の十名ほどの騎士が、完全武装で宿屋に直行、かなり手荒に盗賊団を討伐したようだ。


 この騎士たちが所属する組織は、野戦警察と呼ばれる組織で、何でもホラズム王国の野戦警察といえば、かなりの精鋭部隊だと聞く。


 今日は寝られそうもないわね……

 アグネスは幸い神官見習いで魔法士、それも華奢な女性ということで、早々に取り調べが終わった。

 かなり凶悪な盗賊らしくて、捕まえたものには高額な報奨金がついてきた。


 お小遣いができちゃった……

 その頃には朝日が昇り始めたので、アグネスは「先を急ぎますので」と言ってこの地を離れた。


 その日の夜、さすがに疲れたのか、早めに野宿することにした。

 木の枝の上に所持してきたハンモックのようなものを取り付け、警備の魔法と不可視の魔法を周囲に発動、アグネスは眠りに入った。



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