HAVEN

前野

Prologue:葬送と、自由と呪縛

大砂塵の最中にあって①

 ベル、もういいの――


 耳元で聞こえる声は、今にも潰えてしまいそうなほど弱々しい。彼女は歩くことすらままならなくなったようだった。手早く装備品を整理し、戦友――カレンを背負う。体重と共に背中に感じるのは冷え切った金属の感触。

 そこには生身の、生気に満ちた熱は存在しない。消えかけの焚火のような、風が吹けばすぐに絶えてしまう熱を、私は必死に守っていた。


 慣れたはず砂漠の土地すら、私たちの歩みを阻むようだった。風で砂が舞うのにも構わず、真っ直ぐと西を見据える。身体と、顔のほとんどを布で覆っていても、口内からざらついた感覚は消えない。ゴーグルに砂が打ちつける。全身を砂に揉まれ、脚は上げるに重い。砂中に沈んでいく足は無理やり引き抜かれ、積もった砂が落ちきる間もなくまた砂中へ。その繰り返しだ。


 日は沈む。向かう先に墜ちる陽の光が、世界を紫色に染めていた。この時間、砂漠は真紫に包まれる。昼の赤と、夜の青とが入れ替わる、寒さを予感させる色。もう1時間もしない内に、日中の熱さが嘘だったかのような、全てを静止させる空気が砂漠を支配するだろう。


 比較的過ごしやすい時間帯にあっても、状況は過酷と言わざるを得ない。思考してはいけなかった。どこまでも行動を単純化しろ。動くままに足を動かし続けろ。

 私はいまきっと、世界でもっとも鈍感だ。乾きから来る苦しみも、全身から聞こえる軋みも、全てを頭の片隅へと追いやる。吐く息の、湿った温もりだけが私の存在を証明してくれる。ただそれだけを感じ続ければいい。


 故障した通信機のように断片的な意識の中で、私は夕暮れの紫の美しさを生まれて初めて知った。それは、この空が、だったから。明かりに集う羽虫のように、美しい光へと惹かれていけば西へ着く。


 つまり、私たちは脱走兵だ。


 カレンは逃げ出す前に言っていた。私たちが相手取るのは今まで私たちからなけなしの自由を奪った奴らで、あまりに圧倒的な力を持っているものだから、打倒だなんて考えちゃいけない。ただ逃げて、生きるのだと。


 凛とした切れ長の、それでいて少しだけ可愛げの残る翡翠ヒスイ色の目。燃え盛る炎のような褐色の長髪。本人は自分の髪の色を花の色に例えていたけれど、カレン以外のみんなは花なんてものを見たことが無かった。カレンはそれを聞いて、花畑の写真を見せてくれた。ならいつか花を見に行こうと笑っていた。強く逞しく優しい、彼女の姿は私にとっての太陽だった。


 カレン。私たちは戦争のための道具なんかではないと、最初に立ち上がった一等兵。私たちの分隊の隊長だった彼女は、そうしてみんなに生きる希望を与えてくれた女性ひとだった。


 分隊で一番幼かった私に、使を教えてくれたのもカレンだった。人の殺し方も、武器の扱いも、生きる術は全てカレンに教わった。


 だが、私の背中で憔悴しきったカレンに、あの頃の希望と野心に溢れた姿はない。彼女はもう、目が見えていない。斃れた多くの仲間がそうだったように、彼女もまた大量の弾丸を浴びて瀕死だ。耳に彼女の吐息を感じることすらない。私の肩にかかるカレンの髪は泥と、赤と青の血が混じった濁りきった塊で汚れている。


「あなただけでも、先に」


 カレンはうわごとのように、そう繰り返していた。


「……何も、言わないで」

 努めて、突き放すようにそう言った。自分の喉が震えているのが分かった。言ってやりたい言葉は山ほどあった。でも、そのどれもが、カレンの運命を認めるようで嫌だ。

 私の肩に回された、カレンの腕が小刻みに震えている。一瞬、カレンがひどく小さなものに感じて、それがどうしようもなく悔しく、気づけばゴーグルを曇らせていた。


 銃であれ。ふいに、私たちの居た部隊の標語が脳裏をよぎる。身体の芯にまで染みついた言葉。私たちをした女将校くそ女は、そうすればお前たちは幸せに生きられると繰り返し言っていた。その言葉だけが私たちを生かすと、妄信の幸福だけを許すと。


 標語を思い出した意味に気づいて、動悸と吐き気が激しくなる。腹の底にずんと、重く息苦しい塊を感じて、静かに目を閉じる。これは呪いだった。佳境にあって、忌み嫌った偽りの幸せの日々を思い出したことへの自己嫌悪。


 私たちは道具ではないと、仲間と共にそう誓った。呪われた、地獄のような戦場から逃げ出そうと、人間として生きていくと決意を共にしたのだ。同時に襲い来る喪失感は黙殺する。自由を宣言した私たちの指導者は、私の背中で消えようとしていた。それでも、私は前に進むしかなかった。


 今ここで彼女を背負うのをやめてしまえば、私はまた道具になってしまう。


 と、カレンが咳き込む――そう言うには、あまりにも弱々しい痙攣だった。彼女の身体が引き攣るたび、私の肩に青白い液体がかかる。それは彼女の血――命で、同時に、私たちが道具であったことの象徴だった。


 無理に話そうとするなという私の静止を無視して、彼女は息も絶え絶えに、


「ごめんなさい……巻き込んでしまった。みんな、いなくなってしまった」


 歯をがちがちと鳴らし、嗚咽を漏らす彼女を、私は見たくなんて無かった。彼女は決してみんなの前で泣くことが無かったし、誰かが泣いていれば真っ先に慰めてくれるのも彼女だった。だから、涙を流すカレンというのが、当然と分かっていながらも衝撃だった。


「わたしが徴発しなければ死ななかったかもしれない。わたしが殺し方を教えなければ、わたしがあの時殺していれば、わたしが……」


 悪夢を見ているようだった。彼女の後悔は、私にも深く刺さる。普段なら言わないであろう後悔を漏らしてしまうほどに、彼女は憔悴しきっていた。

 ただ、辛い。頭では分かっている。彼女も私と同じ少女兵だし、歳も3つしか変わらない女の子だ。でも、私たちの英雄が音を立てて崩れていくのだ。絶望がそのまま背中から私を蝕むように感じて、とてつもない悲しみで胸がいっぱいだった。


「すごく……寒い。おかしいよね、わたしたちはもう、そんなの感じない……感じない、はずなのに」


 見ると、カレンの口の端に、青血液の泡が溜まっていた。砂と混じり合って粘着質になった血液。カレンは顔を隠すのを嫌ったから、スカーフを巻くことはしなかった。私は腰布を千切って彼女の口元を拭いながら、


「おかしくなんてない。それは私たちが人間だから。私たちは道具なんかじゃないって、今ここに生きているって証拠なんだ。だから……」


 半ば、むきになるように、自分に言い聞かせるように。それはカレンが昔から言っていた言葉の受け売りだ。私はこの言葉に突き動かされてここまで来た。あの地獄から逃げ出そうと手を差し伸べてくれたのがカレンだったのだ。だから、彼女が今、生きるのを諦めようとしていることが耐えられなかった。


 カレンは最後の仲間なのだ。私に居場所をくれた、生き方を教えてくれた。他の仲間たちはみんな死んでしまった。彼女を失ってしまえば、本当に私は独りぼっちになってしまう。


「優しいね、ベルは」


 耳元で漏れた笑みの、あまりの弱々しさに歯噛みする。奥歯で砂を磨り潰す嫌な感覚に、地面に唾を吐き捨てた。血液交じりの濁った唾が地面に染みを作るのが嫌で、歩みの中でそれを踏み消す。


「私たちは、道具じゃない。私たちは人間だ」

 

 それは、標語だった。だから私たちは、人間として生きる為に生き延びないといけないんだ。


 その言葉にカレンは少し驚いたような顔をして、それから少し笑って、


「そう……、ええ、そう。わたしたちは道具じゃない……わたしたちは――」


 言葉が続くことは無かった。背中に感じる重みが増す。私は何度も戦場で同じ体験をした。その意味を痛いほど理解していた。


 けれど、納得ができなくて、こみ上げてくるものも無視して、十数分歩いた所で砂に足を取られて転んだ。砂漠にうつ伏せになった私の背中には、どんなにかき集めても熱を見つけることができそうにない。


 叫んでいた。砂中に声は沈んでいくようだった。どろどろとした思いが渦巻く頭の中で、何か大きな芯が溶けていくような不快感がして、訳も分からないまま無茶苦茶に声をあげる。


 涙が出なかったから、自分がなぜ泣いているのかも分からなかった。それを教えてくれる人もいなかった。

 理解している。死はいつも唐突で、醜く、終わりはあっけない。背中でふっと、それも眠るかのように当然に、私が信じた人は消えた。足元から虫が這い上がってくるような感触がして、それは絶望や恐怖だと知っていたから、私は再び考えるのをやめて立ち上がる。


 カレンを背負っていた紐が千切れた。重い音を立てて地面に倒れ込むカレンの表情は、今まで見たどんな仲間の骸よりも安らかな表情だった。この一点においてだけ、彼女は他の仲間よりも幸せだったのかもしれないと、ぼんやりとした頭の中で思う。


「カレンは、死んだ」


 口に出して、自分に言い聞かせる。私は腰からコンバットナイフを取り出し、カレンの眼窩に突き立てる。兵器として使役されてきた私たちの身体の中で、感覚器だけは生まれ持った生身人間の部分だったから。私たちにとって眼球は、人間としての戦友を連れていく忘れないための認識票ドッグタグだった。


 カレンの奇麗な顔にできるだけ傷がつかないようにして、スプーンでサソリの肉を掬い出す要領で眼球を抉りだす。カレンの分だった水で青血液を洗い流すと、アルコール瓶に入れた。


 彼女の死体を仰向けにして、羽織っていた布をはぎ取る。露わになった彼女の身体には、夥しいかずの傷跡、手術痕、ミミズ腫れ――私たちが共通に持つ烙印だった。

 注意深く、肋骨の中心にナイフを差し込み、一気に腹部まで開く。静かに青血液が流れだし、周囲の砂を蒼く染めていく。それはまるで、彼女が見せてくれた写真の花畑のように鮮やかな色で広がっていった。


 私は彼女の身体に圧縮して織り込まれた兵器群を解体していく。彼女の生身の部分を掬い上げ、順に地面に埋めていく。取り出した武器は使えないように分解する。脚、腕、胴。解体するたびに、戦友はどんどん小さくなって、最後は頭を地面に埋めて火をつける。

 これが私たちの埋葬のやり方で、親しかった相手ほど丁寧に解体を行うのだった。あの世へ武器は持っていけないから、必要ないから。銃としての自分たちは、呪いでしかないから。


 ふと、カレンの奇麗な髪の毛を思い出して、残っていた水で汚れを洗い流した。全部とはいかないが、燃える美しい褐色が見えた。私は一束だけ、髪を切り取って握りしめた。


 カレンの頭を地面に埋め、彼女の好きだったお酒をかけて火をつけた。青血液で染まった砂地が赤々と燃える。髪と、お酒と、肉と、砂と、血液が燃える嫌な臭い。それはカレンと共に過ごした戦場の匂いだ。3日もすれば、彼女は土に還れるだろう。


 不思議と、埋葬を経て心は凪いでいた。静かに燃える炎へ、切り取った髪の毛を散らせる。黒煙が細くたなびき空に昇っていく。


「ありがとう」


 少し悩んで、この言葉を選んだ。この言葉なら、彼女の後悔も、晴れてくれるような気がしたから。私は揺れる炎を背に、また西へと歩を進める。




 夜は近い。肌寒さと共に群青が迫っていた。夜闇の色は、カレンが零した命に似ていた。

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