吐瀉物

 デュシャンは強烈な吐き気を催して目を覚まし、寝台を下りた。起き抜けの頭を振って洗面台に向かったが、そこへたどり着く前に喉元へ込み上げるものを、寝室の絨毯の上に吐き出してしまう。それは唾液に塗れた紅い花弁、刺々しい剣弁咲き――正真正銘の、薔薇だった。

 

 

 薔薇を吐いたと父に知れては、きっと厳しく叱られる。デュシャンはそう思う。絨毯の上に散った花弁を拾い集め、足音を忍ばせて邸内の回廊を渡り、月光と朝日が入り混じる早朝の庭園へ駆け出した。


 目指すのは裏庭の涸井戸――11歳の初夏から薔薇を吐くようになってもう2年目になるが、2年間の吐瀉物は全てこのなかへ放り込んでいる。かなり深い井戸らしく、底は見えない。今朝もまた、いつものように両手に抱えた薔薇の花弁を投げ入れた。


 雪のようにひらひらと舞って落ちていく。


 それを見ながら溜息を吐くと、吐息に薔薇の香が混じっていることに気づいた。噎せ返るほどに高い香り。デュシャンは湧水台へと赴いて口を濯いだ。薄暗い水鏡に彼の姿が映り込む。


 水鏡に揺らめく鏡像は13歳の少年にしては華奢に見え、その肌は、おぞましいほど白かった。まるで太陽を避けて月光ばかり浴びて育ったかのようなその肌にはおよそ生気が感じられず、ただ眼ばかりが輝いて、深い碧に濡れている。


 デュシャンの父は息子を陽光のなかに連れ出すよう侍従に言いつけていたが、一向に日焼けする様子はなく、太陽を浴びすぎた日は決まって夜に高熱を出してしまうのだった。



「この恥曝しが」


 デュシャンが士官学校の入学試験に落ちた日の夜、彼の父は激昂して言ったものだ。


「私の子供とはとても思えん。体力試験の途中で倒れただと! 私の顔に泥を塗るためにわざとそうしたと言うなら、そう言え。むしろそうであってほしいと願うばかりだ。なにしろ、試験を最後まで受けることさえままならない軟弱者が私の息子であるなど、信じたくもないからな」



 デュシャンは黙っていた。昼間の体力試験のせいで体が熱っぽく、父の怒声がはっきりと聞き取れなかったからだ。足が痺れるまで立たされ、ひたすら罵倒されたようだったが、その内容はほとんど覚えていない。ただ、最後に父がこう言ったのは記憶に刻み込まれている。



「亡霊め」


 

 なるほどゴーストとは自分に相応しい名だ――とデュシャンは他人事のように感心したものだが、己のぼんやりとした輪郭を水鏡の上に見つめながら、先日の回想を打ち切って庭園の路を歩き、私室へと戻った。道すがら、月が朝日に溶けて消えていくのを見た。

 

 

 その日の昼、デュシャンは亡母の図書室にいた。近ごろはずっと図書室で過ごしている。士官学校に落ちてからというもの、父のデュシャンに対する関心は完全に失われ、もはや何をしていようと咎められなくなったからだ。父の胸のなかに燃える退役軍人としての熱意は、専らデュシャンの兄たちにのみ向けられている。彼には年の離れた兄が2人いたが、虚弱な弟と違って筋骨たくましく、頭も悪くなかった。


「おや、あれは何だろう」

 

 亡母の書架にかかる梯子段の上で、デュシャンは表題のない本を見つけた。引き抜いてみると古い写真を収めたアルバムだった。母がこの屋敷に嫁いでくる前の、母の家系の者が数多く写っている。ぱらぱらと頁を繰って見ていると、ある写真に自分が写っていた。それは間違いなくデュシャンの顔だったが、装いは少女のそれである。血族のうちの一人にたまたま顔が似るということは珍しくないが、この場合は話が違った。あまりにも似すぎている。それはどう見てもデュシャンそのものなのだった。後ろ頭を殴られたような衝撃が走り、ふと記憶が蘇った。それはこの写真に写る少女の記憶――凄惨な戦争、大火、野蛮な兵士たち、死ぬよりもつらい辱めを受けてから呆気なく殺されたこと、鮮血、薔薇のような鮮血、薔薇色に染まる世界、断末魔、そして、死の間際に強く思ったこと。


 私はもう一度、この世界に戻ってくることにしましょう。今度は男として生まれて、軍人になる。軍人になって、男たちをたくさん殺めてやろう。だれもかれも殺めてやる。世界を薔薇色に染め上げて、みんな苦しんで息絶えればいい。

 


 ――デュシャンの視界が回転して、気がつくと梯子段から転落していた。いつになく大量の薔薇を吐いた。呼吸もままならない。手が震えるほどの感情が彼を支配し始めていた。それが何であるか、彼にはよくわかっていた。濡れたような碧い瞳はその色が以前よりも濃く、深くなったようだった。

 

 

 ***

 

 デュシャンは美しく成長した。相変わらず華奢ではあったが、身のこなしはしなやかで、武芸に秀でた。翌年の士官学校の試験に一番で合格し、父を喜ばせもした。


 その後のデュシャンの活躍についてはご存知のとおりである。彼は戦争でだれよりも多く戦果をあげた。常軌を逸したように殺戮を続けるその姿は味方さえ恐れさせた。おそろしいのは、デュシャンが敵兵を殺めるときの瞳が、平生のそれと何ら変わらないことだ、と人々は語った。デュシャンは常日頃から殺意を瞳に溜めて生活しているのだった。

 

 軍での昇格は早かった。デュシャンはさらに大量に、残虐かつ効率よく、多くの人々を殺める戦略を練った。彼が国家にもたらした利益は計り知れない。最新の兵器についても精力的に研究し、すぐさま実用化に繋げた。絶え間なく戦争を続け、平和になりそうになると、火種を蒔いてまた戦争を始めた。軍需産業の成長を後押しし、関係者とのパイプを強化した。彼は莫大な財産を築き上げた。それをすべて戦争のために費やした。軍需産業はデュシャンの国での主要産業のひとつとなり、もはや戦争をやめることが経済の停滞あるいは崩壊につながりかねないところまできてしまった。

 

 血腥い悪夢のような日々が続いた。

 

 父がデュシャンを自宅に呼び、軍を辞めるよう説得したことがある。これ以上、残虐な行いを続けるべきではない。もう人を殺すのはやめてくれ。そのような言葉を父から――あの頑固な退役軍人から――聞くことになるとは夢にも思わず、デュシャンはつい微笑んでしまった。彼はまだ青年といえる年齢だったが、すでに軍に対して絶大な影響力を及ぼす地位に就いていた。


 デュシャンは父に対して優しい声音で諭した。そんな軽率なことを仰有られては困ります。どこに耳があるかわかりませんよ。もし今の言葉を公にされたら、あなたは政治批判による第一級犯罪を犯したかどで処刑されることになる。かつての兄たちのようにね。その際に私にできることは、苦しみを味わう時間をすこしでも短くするために、なるべく即死性の高い処刑方法が選ばれるよう、はたらきかけるくらいのものです……

 

 デュシャンはその中性的で生気の無い美貌からしばしば戦場の亡霊と呼ばれた。亡霊は32歳のときに、かねてから水面下で進めていた計画を実行に移し、世界的な大戦を引き起こすことに成功した。彼にとって、人が苦しんで息絶えれば息絶えるほどよかった。なぜということはなかった。よほど昔にその原因となる何かがあったような記憶もあるが、それはすでに忘れてしまっている。ただ何もかも灰になってしまえ。

 

 デュシャンは大戦の最前線で戦死した。彼が生涯のうちに立てた武勲はあまりにも多く、前例のないことだったので、デュシャンのための最高位の勲章が作られ、それが授けられた。ある噂によると、デュシャンは敵国の捕虜となり両腕を切り落とされたが、それでもなお抵抗を続けて幾人かの喉笛を噛み切り、ついに銃殺された際には血ではなく紅い薔薇を吐いて死んだのだという。その話を信じる者はだれもいない。

 

 

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