同性愛者、欲望を諦めなかった者

 BLや百合の盛況や――そう、LGBTを巡る苛烈な擁護とヘイトを見れば分かるように、異性愛者にとって、同棲愛者は深淵なるイデオロギーの崇高な対象なのだ。


 同性愛の崇高性を担保するものがある。私の過去記事の繰り返しになるが、


 異性愛の規範に反対することには倫理的な動機もある、ということだ。ジュディス・バトラーは異性愛の発生を説明する自分の理論に、この倫理性の高さを取り入れている。子供が最初にリビドーを向ける対象は自分と同性の親であり、異性愛の規範性による圧力のもとで子供がこのリビドー対象を手放すように強いられたとき、手放さざるをえなかったこの対象に子供は同一化する。男の子は、原初のリビドー対象としての父親に同一化することを通じて男になり、女の子もこれと同様に母親との同一化を通じて女になる。(バトラーはここで、われわれの自我は失われたリビドー対象との同一化によって構成されるというフロイトのテーゼを参照している。)


 しかしながら、同性愛者は原初のリビドー対象を手放す事を拒否する。この場合、男の子と女の子は、自分と同性であるリビドー対象への愛着を持ち続ける。これが理由の1つとなって、同性愛と異性愛との差異がメランコリーと喪の差異に対応することになる。異性愛者は、失われたリビドー対象に対する喪の作業をうまく成し遂げ、他方で同性愛者は対象に忠実であり続ける。つまり、異性愛の規定には根本的な裏切りがあることになる。

――スラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気 グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム』P346,347


 これを引く事で異性愛者を裏切り者として糾弾している訳ではない、何を言わんとするか、つまり同性愛者はラカンのテーゼの実践者、欲望を諦めなかった者なのだ。ゆえに崇高なのである。ラカン曰く「結局、罪のあることをしたとして、自分に罪があると実際に感じるのは、根本的にはつねに自身の欲望に関して譲歩した限りでのことです」


 『革命』『欲望』、そして『愛』をテーマにした痺れる作品を幾つも捻り出してきた幾原邦彦が、何故同性愛をよくモチーフにするのか――。同性愛者にのみ、為せる革命があるかも知れないからである。社会を創出していく崇高なる愛の革命が。


 特に女性的な力は、常に社会を変革させてきたことを理解せねばなるまい。このことについては3章で詳しく触れるのでお楽しみに!!

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