37話 天然ギャルと新たな条約を結んだ。

 赤霧さんの涙まみれの告解が、夏の夜虫の合唱に溶けていく。

 折筆神社を離れて十数分。目的地の中学校を目指す僕の足は、いつの間にか緩やかな歩きへと変わっていた。

 いや、赤霧さんの話を聞き、歩行に変えざるを得なかった、というべきか。

 滝のように流れる汗を拭いながら、僕はいままでの疑問の答えを得る。

 独特な口癖、ギャルなのに博識な理由、過度な距離感短縮、限定品を購入してまで僕の友達になろうとした理由、買い物時の不自然な間。

 十二単じゅうにひとえの、隠し事。


〝――キツいっスよ、大事なひとが目の前から消えるのは――〟

 

 誰が彼女を責められるだろうか?


〝――いかないで、お父さん――〟

 

 誰が彼女を救えるだろうか?

 赤霧さんの背負ってきた不安を、いったい誰が――

 

 決まっている。

 いや、わかっている。

 問い直す必要なんてない。探す必要もない。

 道路のカーブミラーを見れば、その救世主が立っている。


「……わかりました」

 

 水分の枯渇した喉で、僕はそう、しぼり出すように答えた。

 歩く足を止め、その場で足首の体操をしておく。


「赤霧さんの申請通り、隣人条約の破棄『だけ』受理いたしましょう」


『……ふひひ。相変わらず堅苦しいね…………って、え? 隣人条約〝だけ〟?』


「だけです。友達条約のほうは、絶対に破棄しません――ッ!!」

 

 言い終わると同時に、僕は再度駆け出した。

 先ほど見た地図がたしかなら、ここから走っていけばもう五分もかからない。


「あはは! 残念でしたね、赤霧さん! 条約というのは、互いの了承があってはじめて成り立つものなんですよ! 締結も、そして破棄もね!」


『え、いや、あの……えぇ?』

 

 風を切って走る中。耳に当てたスマホから、赤霧さんの驚く声が聴こえてくる。

 驚きすぎて、涙も引っ込んだような声音だ。


『わ、私の話聞いてた? 私は、もうミッチーを騙したくないから、だから……』


「騙したくない? はっ、その程度のことでなにを加害者ぶってるんですか! 赤霧さんは結局、ずっとひとりで不安と戦ってきただけじゃないですか! そんながんばり屋さんが、僕を騙しただなんて無駄な良心の呵責を抱く必要はないんですよ! 絶対に!!」


『――、でも、私は』


「というか、僕を騙すんだったら『僕パン』放送延期ぐらいのことはしてくださいッ! そのときは、血涙を流して『よくも騙したな!』って怒りますから! あ、なんか想像しただけで泣けてきた。よかったー、放送延期にならなくて!」


『…………』


「とにかく、僕はうれしかったんですよ!」

 

 夜空に浮かぶ満月を見上げながら、僕は伝える。

 自分でも驚くほど、気分は爽快だった。

 夜になって気温が下がり、火照った身体を冷やしてくれているから?

 いや、ちがう。

 

 大切な赤霧さんのことを、もっと深く知ることができたからだ。


「騙してようが打算的だろうが、赤霧さんは僕に話しかけてきてくれた! あまつさえ、僕と友達になりたいと言ってきてくれた! 僕の世界を知ろうとしてくれた! どんな動機であれ、僕はそれが堪らなくうれしかった!」


『――――』


「だから、僕を騙してたとか、そんなお門違いな意識は捨ててください――第一、なんなんですか? 愛情の注げない人間だとか、価値のない人間だとか! 赤霧さんの不安はお察しします。ですが、あんなにおいしい料理を作ってくれる人間が、愛情の注げない人間なわけないでしょう! 価値のない人間なわけないでしょう! ふざけるのも大概にしてください!」

 

 赤霧さんの返答も待たず、僕は矢継ぎ早に続ける。


「放課後の教室で話したことも、耳に息を吹きかけられたことも、脇腹をつつかれたことも、パンツを見せられたことも、肩を叩かれたことも、手を握られたことも、家の掃除をしてくれたことも、料理を作ってくれたことも、お弁当を作ってきてくれたことも……か、間接キスをしちゃったことも、RINEでやり取りしたことも、お泊り会をしたことも、イヤホンシェアしたことも、赤霧さんを看病したことも、一緒に登校したことも、手を繋いで廊下を走ったことも、誕生日を祝ってもらったことも、デパートに行ったことも、今日の七夕祭りも――そのすべてが僕の宝物であり、同時に、赤霧さんの愛情の証でもあるんですよ!!」


『……ミッチー』


「あなたはお母さまじゃない! 赤霧さんは赤霧さんだッ!! いままで抱いてきた感情も偽りなんかじゃない、すべて赤霧さんの『本物』だ! そして、あなたに愛情があることは、いまココにいる僕が保証します!」

 

 目的の中学校が見えてきた。

 僕は外周を回り、プールへの入り口を探す。


『……でも、それでも私は、ミッチーから離れないと……』

 

 スマホからの暗い声。

 幼少期から背負ってきた不安だ。やはり、そう簡単に拭えるものではない。

 本校舎の横に回り込むと、金網フェンスに囲まれたプールが現れた。

 僕はその一画――わずかに開かれた裏口の扉に歩を進めながら、乱れた呼吸を整えつつ口を開く。


「なら、どうして赤霧さんは僕にすべてを打ち明けたんですか?」


『……ッ、それは』


「離れてほしくないから、じゃないんですか?」

 

 赤霧さんの吐露を聞くに、彼女は愛情の有無を確認したいというよりも、ただ単純に『愛されたい』のだと思う。

 幼少期、父親が傍にいなかったさみしさを、誰かに埋めてほしいのだ。

 

 キィ、と扉を開けて、裏手からプールに向かう。

 飛び込み台の上に座り、足先を水に浸らせている赤霧さんが、そこにはいた。

 僕の存在に気付き、息を呑む赤霧さん。

 僕はスマホを切ると、水面に揺れる月を横目にプールを迂回しながら、赤霧さんの下へ。

 彼女の手を取り、泣き腫らしたその目を真っすぐに見つめた。


「離れないですよ。絶対に離しません。オタク友達の卵なんです。みすみす手放してやるもんか――アニメのためなら、僕はどんな労力をもいとわないんですよ」


「……わ、私がアニメを見ようとしたのも、ミッチーに近寄るための口実で」


「だから、動機は関係ないんですって。偽りだろうがなんだろうが、あなたはこの僕の趣味の世界に踏み込んできた。それだけで、オタクの素質は充分にあるんです。そして僕は、オタク友達を絶対に見捨てない」


「……、……」


「僕たちはあくまで友達だ。でも、助け合える友達でもあるんです。支え合える友達でもある――だから、僕は友達条約を破棄しないんです。

 

 僕なりの告白の返事に、赤霧さんは大きく目を見開く。

 五月中旬、茜色の教室。

 赤髪の天然ギャルが、僕の世界に現れた。

 住む世界を飛び越えてきた。


〝――私と友達になりましょー――〟

 

 だからこそ。僕は友達として、彼女の隣に立つ。

 僕は恋愛経験がない。だから恋愛に疎い。

 そんな未熟な経験値のまま恋人になったら、僕は正しい判断を見誤るかもしれない。

 恋は盲目もうもく、ではないけれど。

 恋人になった瞬間、未知の体験に翻弄されて、いざというときに大切な赤霧さんを救えなくなってしまうかもしれない。赤霧さんの危機を見逃してしまうかもしれない。

 

 だから。、僕は経験値の高い『友達』を貫くのだ。

 いつでもどこでも、赤霧さんを救える存在であるために。

 鼓動が早くなっていた原因――赤霧ナコへの恋心を、無理やり封じ込めて。

 恋人よりも、近く。

 

 陰キャではあるけれど、これでも地元では白里しらざとルリカという友達がいたし、こちら折筆市にも灰村カイトという友達がいる。

 未体験な恋愛経験値よりは、友達経験値のほうがずっと上のはずだ。

 ……たぶん。


「いまはまだ、僕は赤霧さんの友達でいます。ずっと傍にいます。もし不安になったら僕を呼んでください。名作BDを持って、すぐに駆けつけますから。だから――」

 

 区切って、僕はポケットから財布を出し、一枚の紙切れを取り出した。

『赤霧ナコになんでも命令できる券』。

 そんな、頼りなくも思い出深い代物を突きつけながら、僕は彼女に命令する。


「僕の友達でいてください、赤霧さん」


「……ほんと、残酷っスね」

 

 いつもの口癖が戻った、と思った次の瞬間。

 赤霧さんは券を受け取った手で、そのまま僕の手首を掴み、身体をプールのほうに傾けた。


「え、や、嘘でしょッ!?」

 

 抵抗も空しく、ザバーン! とプールに落ちる僕と赤霧さん。

 真っ暗闇の水中。上下左右の感覚を一瞬見失うも、月の明かりを頼りになんとか水面へ浮上する。


「――プハァ! な、なにしてくれてるんですかー! 鼻に水が入ったじゃないですか!」


「私をフったからっスよ」

 

 そう言って、赤霧さんは僕の首元に手を回すと、ギュッ、と抱きついてきた。

 水を吸った浴衣と彼女の体温が、僕の肩にのしかかる。

 僕の耳元で、艶のある声が問いかけた。


「私、ちゃんと好きって、伝えたっスよね?」


「はい。伝わりました」


「もしかして、私のこと嫌い?」


「好きですよ。こうして、汗まみれになって追いかけてくるぐらいには」


「好きなのに、友達なんスか?」


「はい。友達です」


「友達なのに、ずっと傍にいるんスか?」


「はい。ずっと傍にいます」


「だけど、恋人じゃない」


「はい。恋人ではありません」


「……マジ残酷」

 

 腹いせなのだろう。猫のマーキングのように、ぐりぐり、と頭を押しつけてくる赤霧さん。

 

 矛盾していることは自覚している。

 そもそも。誰だって最初は恋愛初心者だ。そこから、みんなそれぞれの交際を経て経験値を溜めていく。恋愛経験値のなさは、友達を貫く理由にはならない。

 それでも、いまこの瞬間、赤霧さんの笑顔を守る方法は、友達でいることしかないと思ったのだ。

 いずれは……まあ、僕もそうなりたいとは思っているけれど。

 だから、『いまはまだ』なのだ。

 

 と。可愛らしい八つ当たりを終えたあと、赤霧さんは真正面に僕を据え、こう提案してきた。


「なら、新しい条約を結びたいっス」


「新しい条約?」


「『親友条約』ってのはどうっスか?」

 

 ……友達条約となにがちがうのだろう?

 首をかしげる僕に、赤霧さんはこちらに真剣な眼差しを向けながら続ける。


「親友条約ってのは、言うなれば友達条約と隣人条約を合体させたようなやつっス。さっき隣人条約は破棄しちゃったから、代わりになるものが必要かなって。それにミッチーも、食事提供がなくなったら困るでしょ?」


「そ、それは困ります……でも、親友ですか。あまり想像がつかないですね」


「別になんも変わんないっスよ。親友なんて、友達の上位版みたいな感じで、友達であることに変わりはないんスから。ミッチーの意向には反してないはずっス。まあ、友達は友達でも、普通の友達よりはちょっとだけ仲良しかもしれないっスけどね」

 

 妙に早口だな、赤霧さん……。


「ふむ、ちょっとだけ仲良し……」


「私とミオっちみたいな関係っスよ。あるいは、ミッチーと灰村くんみたいな」


「なるほど。それは想像しやすい」

 

 魂で結び合った戦友という意味か。


「それじゃあ、友達条約も全部ひとまとめにして、その親友条約とやらを締結しましょうか。条約が複数あってもわかりにくいだけですしね」


「――っしゃあ!」


「っしゃあ?」

 

 水しぶきをあげてガッツポーズを取る赤霧さん。どこかで見た光景だ。

 と。そのとき。

 本校舎のほうから、誰かの話し声が聴こえてきた。

 大人の男性であろう複数の声は、なにかを話し合いながらこちらに近づいてくる。

 学校に残っていた教員か。おそらくは、僕たちがプールに飛び込んだ音を耳にし、様子を見に来たのだろう。

 赤霧さんの話では、紺野さんの先輩方がよく忍び込んでいるらしいし。学校側も即時対応が身についているのかもしれない。


「あ、赤霧さん、早く出ないと!」


「り、了解っス!」

 

 急いでプールサイドに上り、ふたりがかりで赤霧さんの浴衣の水を絞ると、僕たちはそそくさと裏口から脱出する。

 間一髪。教員たちに見つかることなく、僕たちは中学校を後にすることができた。

 

 

 

 満月の下。僕たちはずぶ濡れのまま住宅街を走った。

 五分ほど経った頃。誰も追いかけてこないのを確認したところで、僕は安堵の息をついて、ゆっくりと歩行に変えていく。


「だ、大丈夫ですかね? ハア、怖かった……あーあ、スマホがビショビショだ……」


「イケない青春しちゃったっスね」


「赤霧さんはもうすこし反省してください」


「ふひひ、ゴメンなさい」

 

 悪びれた様子もなく笑う赤霧さん。

 その、二日ぶりとなる笑顔に、僕は思わず頬を緩める。


(うん、これで百点満点だ)

 

 笑顔と浴衣のセットを横目にそんなことを考えていると、赤霧さんが濡れた前髪をかきあげ、夜空の満月を見上げながら。


「でも……ありがとう、ミッチー」

 

 と言った。

 その表情は、ひどく穏やかなソレだった。


「ミッチーのおかげで、心が軽くなれた気がするっス。お父さんやお母さんのことを考えるとどうしてもまだ辛いけど……でも、私は私だって割り切ることにする。親がどうとか、他人のことばかり気にするんじゃなくて、私は私なりの愛情ってやつを信じることにするっスよ」


「ええ。それが正解ですよ、きっと」


「なにより、ひとつの夢が叶っちゃったっスからね。ミッチーの言質げんちもちゃんと取ったし」


「……夢? 言質?」


「私の挑戦はこれからって意味!」

 

 そう言って、赤霧さんは軽やかに前に躍り出ると、舞うように浴衣を振り始めた。

 袖に滴った水が、火の粉のように散り踊る。


「あ、赤霧さん! 冷たいですよ!」


「ふひひ! 暑いんだからいいじゃないっスか! 人力スプリンクラーっスよ!」


「言い得て妙な表現だ……」

 

 打算的だなんだと言っていたけれど、突拍子もない言動は赤霧ナコ生来のものなのだろう。

 計算高い人間がタオル一枚で家の外に出るだなんて軽率な行動、取るはずもないのだから。

 

 笑い、舞う赤霧さんを、僕は目を細めて眺め続ける。

 濡れた浴衣は、十二単よりは軽そうに見えた。

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