第22話

 小次郎がムサシに目を移したとき、櫂を削って作った木刀を振りかざしながら、ムサシが波打ち際を走り始めた。木刀をブンブン振り回しながら小次郎に間合いを計らせない。宍戸梅軒との闘いにおいて会得した戦法を見せた。いきなりの激しい動きに苛立ちを感じつつも、小次郎もまた走り続けた。

「臆したか、小次郎!」

 ムサシから半歩遅れる小次郎に、ムサシの怒声がふりかかる。思わぬ事だった。恥辱だった。未だかつて一度たりとも相手に臆したことのない小次郎だ。否、相手方の逃げ腰を非難する小次郎だった。これまでの試合前において人々の口の端に上る言葉は、皆一様だった。小次郎への賞賛だけだった。

「此度も小次郎殿の勝ちよ。はてさて、一体どれ程の時がかかるものか…。いやいや、相手が臆することなく挑めるかどうか…」

 なのに今、その言葉がムサシによって、小次郎に放たれた。この決闘において町の辻々で交わされた言葉は、小次郎の負けばかりが囁かれていた。

「此度ばかりは、小次郎さまとてかなうまいて。何せ相手は、あのムサシだ」

「阿修羅の生まれ変わりと聞き申した」

 しかし小次郎には、それでも確固たる自信があった。〝燕返しから逃れられる者など、この世におらぬわ。彼の摩利支天でさえも〟

「約束の刻限に遅れるとは、何ごとぞお!」

 愛用する長剣を右手に持ち、鞘を投げ捨てて、小次郎は走り寄った。

 波打ち際を走り続けるばかりのムサシは、その場に止まって決しようとする気配をまるで見せない。小次郎に罵声を浴びせながら、唯々走る。次第に小次郎の体力が奪われていく、胆力が失われていく。野生児のムサシ、策士なり!

「敗れたりい! 小次郎。何ゆえに、納めるべき鞘を投げ捨てる。勝負を捨てたかあ!」

突然の、思いもかけぬムサシの言葉に、激しく小次郎は動揺した。荒ぶるムサシの言葉に、翻弄された。三尺にも及ぶ長剣の鞘、邪魔になりこそすれ、打ち捨てても何の問題もない。しかし様式美にこだわりを持つ小次郎の心底に響いた。

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