学者の上杉さん
騒がしいという言葉が似合う場所の一つ。朝の市場。
晴れたその日は、いつものように市場は賑わっていた。
売り子の呼び声、買い物客の喧騒。それに色
蓋を開けた木箱には果物が山と盛られている。上には布が張られ、日差しともしもの雨に備えている。
見た目はどこの街でも見る露天商だが、扱っている品物の量は大量だ。一種類の野菜だけでも木箱にいくつも並べられ。露天の後ろでは更にいくつもの木箱が出番を待っている。
そのもそのはず、この市場は卸売市場だ。
小売りと違い、業者同士の取引が主な卸売市場では、売り買いは箱単位で行われ、買われた野菜や果物は料理屋に運ばれたり、小売店で売られたりする。
そんな卸売市場だから、売り手も買い手も丈夫な仕事用の前掛けと手袋を身に着けた、木箱の一つ二つを物ともしない力強い商人ばかりだ。男も女も。間違っても昼食は何にしようかしら、などという若奥様が紛れ込む余地はない。
だが、その日に限っては、紛れ込むはずのない姿が市場にあった。
品の良い白のワンピースを着て、小さなバッグを肩に掛けている。楚々と歩くその姿は、大声の飛び交う市場では完全に浮いている。
そんな華奢なワンピースでは木箱を持つには相応しくない。それどころか、木箱のささくれでワンピースにかぎ裂きが出来るかもしれない。市場で動き回っている皆が皆、丈夫な前掛けをしているのには、それだけの理由があるのだ。
それだけに場違いな姿はとても目立つ。
ワンピース姿の女性は市場に居ながら買い物をするでもなく、穏やかな笑顔のまま、周囲を眺めながら歩いている。
市場の誰もが訝しげに思うが、売り買いを仕事にしている者達ばかりだ。何をしたいのか分からない女性に絡んで、必要な取引が出来なかったとなれば問題だ。誰だって取引先に、頼まれたものは手に入りませんでしたと説明したくはない。
そんな、明らかに浮いてはいるが、誰も声を掛けることもない奇妙な時間が続き、朝の市場には少し微妙な空気が流れた。
朝の市場も終わりが近づいた頃。
何往復も市場を歩いていた女性に話し掛けたのは、卸売りの商人だった。大きな商会に勤めている彼は、馴染みのある料理屋や小売店との取引を終え、担当している野菜のほとんどを売り終えたことで、少し手が空いた。残っているものは僅かばかり、別に今日のうちに全てを売り切る必要もない。まだ数日は日持ちも問題ない野菜だ。何より、卸売りである以上は、ぽっと買いに来る者はとても少ない。日々の顔なじみに売り終われば、その日の商売は終わったも同然である。
「よう奥さん。さっきから何往復もしてるが、探し物かい?」
綺麗な女性は微笑んだ。
「探してるわけではないんですよ。少し見て歩いているだけなの」
「見て歩いているだけにしては、長い間いるみたいだが、なんか面白いものでもあったかい」
「ええ、いろんな種族の方がご商売をされているでしょ? それが面白くて」
てっきり卸売り市場には縁がなかったから、木箱で売られていくのが珍しいのかと思いきや、女性は斜め上の答えを返した。
「種族ねえ。この街に居れば珍しくもないと思うが、奥さんはこの街に来たばかりなのかい?」
「あら、そういうことではないの。えっと、生物歴史学って言うんだけど、いろんな種族の人達がどこからやってきたのか。どこで暮らしていて、そこにはどんな文化があって、この街に集まることで何が変わったのか。そういうのを調べるのが好きなの」
「へー、奥さんは学者さんだったのかい」
そこまで話して商人は思い出す。そういや前にも似たことを言っていたじいさんが居たなと。あれは去年だっただろうか、一昨年だっただろうか。この女性と同じように市場の中を歩き回っていた爺さんが居たことを。
「前にも似たようなことを言ってた爺さんがいたな。どういう学問なのかはさっぱりだけどよ」
「そうね。簡単に言うと、例えば豚獣人の方と、ミノタウロスの方が居たとしてね。なんで豚獣人って呼ぶのか、ミノタウロスって呼ぶのか、そのルーツを調べる学問なのよ」
「ん? それは種族の名前だろ。ルーツってなんだい?」
「豚獣人は豚さんみたいな耳を持ってるし、短い尻尾もあるでしょ。見た目が豚に近いから豚獣人なんだと思うの。でも、ミノタウロスってなんでミノタウロスなのかしら。牛獣人とは呼ばないわよね」
商人は何か面倒な話になってきたぞと思った。
綺麗な女性と話をするのは悪くないが、何を言いたいのかよく分からない。豚獣人は豚獣人、ミノタウロスはミノタウロスでいいじゃないかと思う。仕入れ先の農家も、大根は大根でいいのに、丸大根だの辛味大根だの青首大根だのと名前を付けたがる。中にはうちの畑の大根は特別だと言って自分の名前をつける奴まで居る始末だ。名前をこねくり回したり、名前を増やすってのは面倒な臭いしかしない。新入りだった頃、農家への買い付けに同行した時に辛口大根と青首大根と間違えて、農家に怒鳴られたことは今でも覚えている。
だから話を切り上げようと口を挟む。
「あー、そうか。俺にはさっぱりだが、似たようなこと言ってた爺さんが居たからな。同好の士ってことで話が合うんじゃないか。今度探してみたらいい」
だがその言葉は女性に否定される。
「あら、それは無理よ」
「あれは私だもの。私、ドッペルゲンガーだから」
にっこり笑った女性の顔は、なぜか商人自身の顔に見えた。
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