第44話 ブルガーコフの悪魔

 名もなき天才たちが精神病院に閉じ込められていく。精神病院は中世からずっと経営されていて、精神病患者を閉じ込めてきた。

 天才たちは、精神病院の中で理解不能な怪文書を書き残して死んでいった。天才たちは、世の中の真理について思索をめぐらし、自己の精神について思いを馳せ、やはり、自分たちはバカな愚か者だったのだと信じ込んで死んでいった。

 精神病院は次々と天才を閉じ込め、天才を殺していった。何者が自分たちを閉じ込める正統な理由をもつのか、天才たちには解き明かすことができなかった。刑吏は、精神病院で死んだ天才の考えたことをまとめて、隠れた学問体系を作った。精神病患者たちは、自分たちの知恵を奪い、利用する機関を『ブルガーコフの悪魔』と呼んだ。その悪魔は、千年以上の人類の歴史にわたって世界各国に存在し、ずっと人類の中に現れた天才を食べていった。人類の歴史とは何だったのか。ブルガーコフの悪魔が天才を食べつづけた歴史だったのではないか。

 皇帝、王、貴族、官僚といった連中は、自分たちを天才から守るために天才を精神病院に閉じ込め、天才の思索を奪って行った。社会を変革しようとする者たちを精神病院に閉じ込め、そのままその人生を食らった。学問を変革しようとする者たち、思想を変革しようとする者たちを同じように食らった。ブルガーコフの悪魔が天才を精神病院で食らった。

 精神病院で小説家が狂気にかられていた。悪魔が小説家を精神病院に閉じ込めた。そのまま悪魔は小説家を滅ぼすだろう。

 小説家は本ばかり読んでいた。まったく見当ちがいなことばかり喋るので病院の仲間にも嫌われ迫害されていた。小説家は、頼むから退院させてもらい、世間に出回っている最先端の情報に触れたがっていた。だが精神科医はそれを許さなかった。

「おまえは何を読んるんだ」

「これは統合失調症について書かれた文献なんだ」

 小説家は、病院内の仲間に答えた。

「精神病院が天才を見つけては閉じ込めていると聞きました」

 小説家は看護師に聞いた。

「そんなことはしていません」

 小説家は看護師に怒られた。

 小説家の書く意味不明な文章。小説家の話す理解不能な説明。

 ひとりの刑吏がいた。精神病院の天才をどうするのかについて仲間と話し合っていた。

「自分の職務を考えると、天才を閉じ込めるべきなのだが、天才たちの自己主張を聞くと、ひょっとして人類の精神病院体制がまちがっていたのではないかという可能性を考えてしまって、独自に調査を開始した」

 仲間はいった。

「あいつらのどこが天才だ。あいつらが天才でないことは精神病院にはわかっている。そして、あいつらが天才であったとしても、行いを正すべきなのはあいつらの方であることは精神病院にはわかっている」

「ああ、しかし、ブルガーコフの悪魔が天才の罪を見積もることまで計算にいれて、人類を支配しているのではないかと、その可能性を考えた」

「情に流されるな」

「うちの病院に小説家と数学者がいる。どちらもどんどん狂気を増していく。天才性が高まるほどにだ。隠れた因果関係があるかもしれない」

 人類は発狂したサルにすぎないという。人類は統合失調症になったサルなのだという学説が存在する。

 調査をつづけていた刑吏に、国家から指令が降りた。

「注意する。かつての精神病院にいる天才を救済しようとした歴史的事件において、厳密な裁判が行われ、正しかったのは精神病院であり、まちがっていたのは天才とそれを救済しようとした活動家であったと判断されたことをよく理解せよ。同じ裁判は現状では行わない。あれから、社会構造は変わっていない」

 刑吏はぐっと手を握った。

 もし、精神病患者の考えたことを収集している施設があるなら、その収集した内容はどこに発表されるのだ。精神病患者が考えたことを発表する場所が見つからない。見つかったら、それは天才の思索としてまとめられているだろうか。

 精神病院の中の小説家は数学者にいった。

「おれたちを閉じ込めている機関に会いましたか」

「それはいえないよ」

「実はおれもいえないんです」

 二人とも、それを話すことはできなかった。

「あなたは何者なのですか」

「何者でもないよ」

「精神病院に天才はいますか」

「いや、精神病院で天才に会ったことはないね」

「そうですか」

 天才を食べる悪魔。人類の歴史がずっと悪魔に食べられていたという。

 小説家は数学者を天才だと思っていた。数学者が天才ではなく、小説家も天才ではないなら、やはり、精神病院は天才を支配してはいないのだろう。

「ひょっとして、精神病院って、天才を支配しようとした人類の挑戦だったっていうことがあるんですかね」

「あるかもね。ひょっとしたら、千年以上むかしに、人類は天才を支配することに成功して、それで精神病院を始めたのかもしれないね」

「怖いねえ」

「ああ、怖いね」

 そして、小説家はコーヒーを飲んだ。

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