第109話 月明かりの道標
この魔方陣のようなものに関しては、すでに手遅れだ。
……というのが掃儀屋の見識らしい。なんでも、物理法則を無視してまでこの形状を維持できるほどの魔力が、すでにこの地には溜まってしまっているのだという。
であれば、このアーティファクトの破壊は諦める他ない。それよりも、今後起きる出来事に備えた方が有意義なのだという。
「解析班にも頼んでみたけど、やっぱりなにかの目印の可能性が高いらしい」
ずいぶん大掛かりな仕掛けだなと、旭は思った。
その後も特に進展はなく、遂に日が暮れてしまう。完全に "待ち" の状態に入ってしまったらしい。
車のステップに腰掛け、フラッシュが言う。
「私達はこれが仕事なのでいいんですけど、夏休みは貴重ですよ。なにかあれば連絡しますから、明日からは来ていただかなくても大丈夫です」
歯痒いが仕方ない。それがあるべき姿と言われてしまえば、なにも言い返せないのだし。
それに旭には宿題がある。
すっかり忘れていたし、このまま忘れていたかった。しかし旭は変に真面目なので、長期戦を見越してテキスト系の残りとポスターの下書きを持ってきていたのだ。
道すがらに宿題のプランを考えていると、あることに気づいた。
「あ、絵の具忘れた」
旭の独り言に、暁火が素早く反応する。
「真彩さんに借りれば?」
「うーん、あるかな……」
画家でもない普通の大人が絵の具を持っているというシチュエーションを、旭は上手く想像できなかった。
まあいいか。ダメ元で訊いてみよう。
もうすっかりお馴染みとなった玄関をくぐり、真彩の部屋へと向かう。
「戻りました~……って、え?」
ぬいぐるみに顔を埋めた真彩が、部屋で一人転がっていた。
「だ、大丈夫ですか……?」
気分が悪いと言っていたが、まさかこれほどとは。心配して駆け寄る旭。が、女性陣二人はなにかを察したように旭を窘めた。
「あんま騒がないほうがいいよ。女の人にはそういう時があるから」
それは一体どういう時なのだろうか?
暁火の言葉に、真彩は弱々しく返す。
「いや、別にそういうんじゃなくて……」
「あ、違いました?」
「まあ……うん、ほっといて」
よくわからない。が、本人がほっといてくれと言うのだから構いすぎるのもよくないだろう。
「あ、そうだ。絵の具ってあります?」
「未央が持ってた気がする……多分」
未央に確認すると、画材共々快く貸してくれた。
※
空き部屋で一人、絵の具を混ぜ合わせていた。
蒸し暑い風が流れ込み、汗を冷やす。画用紙に垂らさないよう、旭は袖で汗を拭った。
まずは淡い色で下塗りをする。しつこくなりそうなので輪郭線はオミット。大雑把に色を付けて、全体のバランスを確認。
「ちょっと水が少ないかな……」
白が厚ぼったくなってしまった。筆に水を染み込ませ、修正を試みる。
まだ乾いていない絵の具は、確かに少しばかり薄まった。だが思うような色合いにはならず、頭を悩ませる。
「なかなか難しいな……」
水彩画は小学生以来だが、これがどうにも上手く行かない。アクリル絵の具よりはまだわかりやすい挙動をするのだが、それでもこのザマである。
うんうん唸りながら、少しずつ色を置いていく。
そんな折に、背後から声をかけられた。真彩だ。復調したのだろうか。
「具合は良くなったんですか?」
「まあ、それなり」
いつもよりトーンの低い声で、しかし努めて元気に彼女は言った。あまり心配されたくないのだろう。
旭の絵を見て、彼女は言う。
「へー、本格的じゃん。絵、上手いの?」
確かに、ポスターなんて適当に済ませている生徒の方が多い。真面目に描き込んでいるのは、美術部員やら漫研やら……とにかく、絵が上手い生徒ぐらいのものだ。
さりとて、旭は絵が上手いわけではない。
「別に大したことないですよ。ただ、こうやって色々考えながら塗るのが結構好きなんで」
趣味というわけではなかった。授業やら課題やらで、機会がある時にしか描かない。
「変なの」
首を傾げながら、真彩は言った。意図がよくわからず、旭は描きかけのポスターに視線を戻す。少しばかり乾いた絵の具は、いい感じの色合いになっていた。
「あたしは工作に逃げてたなあ。そっちのが多少は上手く出来たし」
「工作もいいですよね」
別に得意ではないですが――と付け足し、再び彼女を見やる。
穏やかな笑みを浮かべる彼女は……しかし、どこか疑問を抱えているようだった。
「賞とか取れる?」
「全然。貰ったことなんて一回もないですよ」
入選ぐらいなら何度かあるが、そこから先に進まない。それに、他人の評価はあまり意識していなかった。
「それってなんか悔しくない?」
凝り性で負けず嫌いなのだろうか。真彩の言葉に、旭は答える。
「あんまり気にしたことないですね。楽しいんで」
表彰されたら嬉しいだろうが、別に画家を目指しているわけでもない。こうしてたまに楽しく絵が描ければ、旭はそれで十分だ。
「いいじゃないですか。息抜きでもなんでもいいですけど、楽しくやれれば」
怪訝顔の真彩は、腑に落ちないとでも言いたげだった。
「上手く行かなくても、評価されなくても。別に褒められるためにやってるわけじゃあないですし」
なぜだろうか。彼女には、自分のことを理解してもらいたいと思ってしまう。それが烏滸がましい思考であることなど、わかっているのだが。
「上手く、行かなくても……ねえ」
呟く真彩は、なにか別のことを考えているようだった。
「そりゃ確かに、上手くできるに越したことはないですけどね」
そう締めくくりながら、旭はポスターに向き直る。ぼんやりと全体を眺めながら絵の具を混ぜ、いい感じの色を模索していく。
コツは、無闇に濃い色を使わないことだ。
題材は交通安全。黄色信号は止まれの合図。あえて逆光にすることで、信号機を黒く塗る。警告色はよく目立つからだ。
輪郭は陰影で表現する。これが非常に難しい。ぺたぺたと絵筆を動かし、なんとか形にする。
それから、ゆっくりと慎重に、コンパスまで持ち出した下書きを頼りに、大きな丸を描いた。
黒い背景に、ぼんやりと浮かぶ黄色い光。
(なんかお月さまみたいだな……)
換気のために開け放たれた窓から、夜の空を見上げる。
なぜだろうか。少しばかり欠けた月は、いつもより大きく見えた気がした。
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