奇怪な料理人
第99話 前向きな嘘
殆どの人間と最適な関係を築けたし、この歳になって未だに付き合いのある友人も多い。
酒も飲めるし飯も食える。下ネタ以外はどんな話にでも合わせられるし、下ネタだって愛想笑いでやり過ごすことが出来た。
とある友人は、そんな真彩をコミュ力おばけと称している。
実家がそれなりに裕福なので、学業に困ることもなかった。意欲はあまりなかったが、進学に問題のない成績は維持できたし、それを苦に感じることもなかった。
仕事選びも得意だ。
高校生の頃は、小遣い稼ぎに週六でバイトに入っていた。どれも長続きはしなかったが、次から次へと見つかるので、遊ぶ金に困ったことは一度もない。
専門学校時代も、基本的にはバイトで食いつないでいた。食材の一部は実家から送ってもらっていたが、人間一人が十分な生活をできる額は稼いでいた。
卒業後の数年間は料理関係の仕事を転々とこなし、今に至る。瀬織での稼ぎも悪くない。
生活能力にも優れていた。
妹の未央とは対象的に、真彩は一人でも大概のことができる。
炊事洗濯は当然のこと。納税やらなんやらのお役所手続きに、ご近所トラブルの仲裁まで。できない他人の面倒を見てやるのも、嫌いではなかった。
それを他人に悟らせないのも、特技のひとつだ。
真彩の周囲の人間は、その殆どが真彩の能力を見くびっている。しかし真彩は、意図的に自らの評価を下げていた。
自分のキャパシティを正確に把握しているからだ。
下田真彩には、世渡りの才能があった。
二度目の乗り換えを控えた真彩は、駅のホームで立ち止まり、スマホで時刻表を確認する。
余裕のあるスケジュールを組んできたので、乗り換えまではまだ少し時間があった。長すぎず短すぎず、一息つくのにちょうどいい待ち時間だ。
エスカレーターでのんびりと上階へ上がり、併設のコンビニを物色。
ふと、ここで踵を返して瀬織に戻ろうかとも思った。
少し考えて、自分に言い聞かせる。両親にも、宿にも、実家へ帰ると言ったのだ。それに多分、未央も悲しむだろう。
動き出しそうになっていた足をぐっと踏みとどめ、代わりに冷ケースから安酒を抜き取る。スナック菓子と合わせて、レジへ。
レジ袋を左手に提げ、足早に次のホームへと向かう。
お盆休みとは言え、中途半端なローカル線のプラットホームは閑散としていた。蒸し暑い外気が肌に張り付き、不快感を煽る。
Tシャツにハーフパンツというラフな格好をしていた真彩は、比較的暑さに強い。そのままベンチにドカリと腰掛け、レジ袋の中身を
安酒のプルタブを起こすと、カシュッと小気味の良い音が鳴り響いた。
飲み口からわずかに上がる蒸気を、ぼんやりと眺める。
なぜ、帰りたくないと思ったのか。
実家が嫌いなわけではない。少しばかり古いが、ウォシュレットもあるし住みやすい家だと思う。
家族仲も極めて良好だ。特に妹には、少し過剰なのではと思うぐらいに懐かれている。
だが、それでも。
実際に帰るとなると……どうにも、足が重くなる。
理由は、多分。
結論に至るよりも先に、乗るべき電車がやってきた。
三両編成の車両には乗客も
半分ほど飲み干した安酒を持ったまま、真彩は一番端のボックス席に腰掛けた。
むせ返るほどの強い炭酸で埋め立てられた液体を、喉の奥へと流し込む。
不味いなこれ。人間の飲み物じゃない。
一応これもチューハイなのだろうか。
防腐剤で塗り固められた安ワインとは違う、質の悪いアルコール消毒液にも似た臭いが鼻の奥を抜けていく。
強すぎる炭酸は口に入れるだけでいたずらに粘膜を刺激するし、フレーバーが悪いのか旨味や甘みを感じられない。ただの臭くて苦くて不味い水だ。
酔い方も、気持ちのいいものではない。多分、臭いがよくないのだろう。
庶民の味方、労働者の鎮痛剤と聞いていたが……そんなものはまやかしだ。
こんなもののために生活を切り詰める人間のことが、真彩には理解できなかった。
楽しい酩酊はビールに限る。そこそこ以上の銘柄を、グイッと一気にあおるから気持ちいいのだ。
スナック菓子をぱくつきながら、車窓の外に広がる景色へ目を向ける。
ここのところ観光地で過ごしていたからか、片田舎の地方都市はかえって新鮮に映った。
不規則に訪れる上下の揺れで、酔いを覚ます。
帰る頃にはシラフになっていることだろう。
そんな真彩の目論見通り、目的の駅につく頃にはすっかり酔いが覚めていた。
人が居るのか居ないのかよくわからない改札を抜け、外に出る。そういえば、いつの間にやらキャッシュレスに対応していたらしい。数年前、最後に利用した時はまだ切符しか扱えなかった。
その代わりと言ってはなんだが、逆に切符を吸い込む機械がなくなっている。両極端な最寄り駅に、真彩は溜息を吐いた。
とはいえ、地方の駅などそんなものである。
気を取り直して、真彩は帰路についた。
やけに車通りの多い街道を、のそのそと歩く。気が進まない。衣服の詰まった小さなリュックが、やけに重たく感じられる。
たった十五分に満たない道程が、果てしなく長い。
いつからだろう。家に帰るのが億劫になったのは。
二十一の年、年に三回の帰省が面倒で二回に減らした。家族には、バイトが繁忙期だのなんだのと適当に言い訳した記憶がある。
家も家族も、嫌いではないはずなのに。
鬱屈とした感情を抱えながら、小道を抜ける。体が覚えていたショートカットコースは、未だに健在だ。
あぜ道を通り、林の裏へ。少し歩くと、舗装された道に出る。
「……次はお墓の後ろか」
それは嫌だな。遠回りしよう。
回り道して、少しでも時間を稼ごう……というわけではない。本物の幽霊を目にした結果、心霊スポットに本能的な恐怖を覚えるようになったのだ。
「嘘つき」
自分で自分を咎めながら、一度大きな通りに出る。
地元民ぐらいしか使わないはずなのだが、深夜になってもちょくちょく車が通る、不思議な道だ。
コンビニを見かけ、トイレに行きたかったことを思い出す。
ついでに晩酌用のビールも買った。つまみのスルメイカもだ。
店員の愛想が良かったので、レジ横の大福も追加で買った。
さて。
ここを過ぎれば、すぐに実家だ。
気づけば溜息を吐いていた。
帰りたくない。
そう思いながらも、義務感を帯びた足は動く。一歩、また一歩と、確実にその歩みを進めていく。
やがて見慣れた看板が目に入る。下田金物店の、古びた看板だ。ところどころに錆びが浮いていて、替え時を感じさせる。
着いてしまった。
どうしよっかな。
少しばかり考えてから、真彩はようやく観念した。脇に隠れた玄関の引き戸に手をかけ、瞑目してから一息に開く。
「ただいまー」
「おかえり。遅かったねえ」
まず出迎えたのは母の声だ。
「お父さんは?」
「商談に出てるよ」
「そ」
素っ気なく返し、真彩は廊下を進む。
その奥では、真彩を出迎えるもうひとつの影が待ち構えていた。
「……おかえり、お姉ちゃん」
「……ただいま」
居間と廊下とを隔てる襖から、ひょっこりと顔を出した出不精な妹。
その照れ笑いを見て、真彩はようやく思い出した。
ああ、そうだ。
この可愛くて愛くるしい妹、あたしのことを慕ってくれている妹に。
心の底から、会いたくなかったのだ。
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