二章一話 勘違いしないでよね!(一)
週明け、欠伸混じりに上履きを履いていたら、「市原さん」と呼ばれた。
風邪が長引いたからか、村山くんは頬が少しこけていた。
それでも「おはよう」「おはようございます」と朝いち挨拶をかわせてほっとした。ちょっと嬉しい。
「心配かけてしまいましたね」
「ほんとだよ。でも無事に戻って来たから許す。へへ」
「学年末も近いですからね。遅れた分を取り戻していかないと」そう言ってニコリと笑う。「もちろん。無理はしませんよ」
耳のあたりがぽっと熱を持った。「そうだね。無理は駄目だよ。村山くん結構向こう見ずなとこあるから」
「たまに言われますね」
「でしょ? ……あ、それとこれ。あんまり綺麗にまとまってないけど、よかったら」先週分のノートの写しを彼に手渡した。渡すとき、照れ笑いも添えた。
「いいんですか?」村山くんは驚いていた。私は「もち」と頷く。「ありがとうございます!」
「ま、活用してくれたまえ。はっは」
「このご恩はいつかお返しします」
「大袈裟だなぁ、村山くんは」腕時計にチラと視線を落とした。ホームルームまであまり時間がない。第二ミッションに早く取りかからねば。
スカートの裾をぎゅっと握った。「あ、あのさ村山くん!」こういうのはさらっと言わなきゃ。さらっと。
「なんでしょう?」
――ショーの連絡先本当にいいのか?
――うん。自分で訊くから。
「村山くんのれ、れ……」
「れ?」
「えっと」そんなに真っ直ぐ見ないでよ。
「はい?」もう、察してよ!
と、うだうだしているうちにチャイムが鳴った。
「あの、一体なんでしょうか?」
「ううん。なんでもない……」
「そうですか。では教室に向かいましょう。ホームルームが始まります」
「うん。先行ってて……」
「はぁ」
村山くんの背中を見送りながら、私はガックリと肩を落とした。
――村山くん、連絡先教えてくれないかな?
――(彼は照れつつもニッコリ笑い)もちろん。俺も前々から訊こうと思っていたんです。でも、変に意識してしまっていままで訊きそびれていました。くっ、女性から言わせてしまうなんて一生の不覚です。
なんてねなんてね。
「おーい、市原さんやい。欠席か?」
「――あ、はい! 市原ここにいます!」変な想像に耽っていたせいで、出席を聞き逃していた。
「月曜の朝っぱらからご機嫌だな。その元気、俺にも分けてくんないか?」
あはは、と笑い声が起こる。なにをやっているんだ、私は。恥ずかしさに小さくなる。
しかも、村山くん、お隣さんとなんか話し込んでいるし。
ホームルームが終わったあと、そのお隣さんが振り向いた。心中穏やかでない私を挑発するように、若月早苗は口元に笑みを浮かべた。
それから三日間、私は村山くんと口を利かなかった。
「ねぇねぇ、真理っち。一体どうしたの?」
「なにが?」
「最近、村山くんのこと避けてない?」メロンパンをもぐもぐしながら泉水が訊いてきた。
「そう?」私もまたチューっと紙パックのジュースを飲みながら答える。
「うん。ここ二、三日の真理っち変だよ。村山くんのこと避けてる感じがする」
「避けるもなにも、私と村山くんはただのクラスメイトだし」素っ気なく言った。
「そりゃそうだけど。……真理っち眉間に皺寄ってるよ」
「そんなことない」
村山くんは今日も若月早苗とお昼を食べていた。これで三日連続だ。初日はぎこちなかったくせに、次第に口数と笑顔が増えてきた。
「あちゃー、村山くんも満更でもなさそう。鼻の下伸びてるし」
私はおにぎりを口いっぱい頬張った。「いいふじゃなひ? わふぁつぎさん、びふぃんばもんえ(いいんじゃない? 若月さん、美人だもんね)」
「なんて?」
「クラスのマドンナを独占してさぞいい気持ちでしょうね」おにぎりを飲み込んでから言った。
「うわ、刺々しい。もしかして女の嫉妬ってやつ?」
「違います!」
「今度三角関係もの書こうと思ってるんだけど、そこらへんの乙女心取材させてくんない?」
「三角じゃなくて一直線だよ!」ご馳走様、と席を立った。
「ああん。男前な真理っちがこの頃乙女乙女してるぅ」無視だ、無視。
「歯磨きしてくる」
廊下をずんずん歩きながら、ふと自分自身に問いかけた。
――私って男前なの?
そもそも一過性の勘違いだったんだ。
シャカシャカシャカシャカ。前歯、奥歯と乱暴に歯ブラシを動かす私。
大好きだった彼に振られた。それもクリスマスイブに。私は最低最悪に弱っていた。そんなとき、お人好しなクラスメイトにばったり出会った。彼は親身に話を聞いてくれた……。
これ以上ないタイミングだ。そりゃ「この人、いい人かも」って心が変な方向に行ってしまってもおかしくない。それにマラソン大会。根が体育会系の私は、努力とか一生懸命とかそういうのに滅法弱い。不器用なりに頑張って、それでも報われなくて、そんな彼にめちゃくちゃ感情移入してしまい、なぜか私が泣いてしまったぐらいだ。
ガラガラっとうがいをしてから、鏡に映る自分の顔を見た。険しいかな? 唇の端をいーっと持ち上げてみた。
正直な話、村山くんと一緒にいてドキドキすることはない。ときどきらしくもないテンパリかたをするのは、村山くんにドキドキしているからじゃなくて、心が勝手に「これって恋なの?」と勘違いしているから。それが言葉を詰まらせたり、体温上昇に繋がったり……それだけの話だ。英会話の授業で向かい合っている二人を見て心がごろごろするのも、私が「嫉妬」という名のスパイスを楽しんでいるからに過ぎない。どれもこれも一過性の恋愛ゲームだ。
巧さんと付き合っていたときだって名前も知らないような女の人にしょっちゅう歯軋りしていたじゃないか。でも、心がごろごろ鳴るたびに、私は巧さんのことをもっともっと好きになっていた。恋の不思議なからくり。
「……村山くんは、そういうんじゃないよね」
「お、市原。丁度よかった」
廊下を歩いていたら呼び止められた。校内で声をかけてくるなんて珍しい。妃くんだった。
「今日の放課後、暇か?」
「いきなりどうしたの?」
「いや、学年末もそろそろ近いからよ。みんなで勉強会でもしないかって」
「みんな?」
「市原とあんたの友達の、あの赤縁眼鏡の……」
「泉水のこと?」
「あぁ、その子だ。あとショーも」
「村山くんも?」
「ルヴォワールなら静かだし、四人で勉強会でも……」妃くんは私の顔色をじっと窺って「やっぱ嫌か?」と訊いてきた。
ぎくっとした。「嫌ってわけじゃないんだけど……」
「あの馬鹿、この頃鼻の下伸ばしっぱなしだからな」ちっと舌打ちした。
「知ってるの?」
「まぁな。本来の目的を忘れて浮かれてんだよ」
「目的?」
「おっと余計なこと言ったな。いまのは忘れてくれ」
「そんな言いかたされたら気になるんだけど」もしかして私、なにか勘違いをしているんじゃ……。
「そろそろ釘刺しとかねえとな」妃くんは聞いていない。
「ねぇ、もしかして村山くんに頼まれたの?」
妃くんの表情が途端に険しくなった。「あいつは馬鹿だけど、自分がすべきことを他人に任せるような、そんないい加減な奴じゃねえよ」
「ご、ごめんなさい」凄まれて身が縮こまった。
「……いや、悪い。俺こそちょっとむきになった」
「私こそ意地悪なこと言っちゃった」言ったあとで自己嫌悪するのが分かっていたのに、なんで嫌なこと言ったんだろう。
チクリと痛む胸を押さえて私は言った。「妃くんの気持ちは嬉しいけど、今日は用事があるからパスかな」そんなものなかった。
「そうか……呼び止めて悪かったな」
「ごめんね」
気にしないでくれ、と軽く手を上げて、「じゃあ」と行ってしまった。
両手で口を押さえて、はぁと溜め息をついた。
私は、なにに対して意地を張っているんだろう?
その日も結局、村山くんと話さなかった。教室だったり廊下だったり、何度か擦れ違ったけど、私は彼が見えていないかのように素通りした。村山くんは村山くんでなにか言いかけては言葉を飲み込んでいた。雨に濡れた子犬のような目。無視を決め込むたびに胸が痛んだ。嫌な気分になった。
連絡先が訊きたかっただけなのに、どうしてこんなことになったんだろう。
ざらついた気持ちのまま家に帰りたくなくて、気晴らしに本屋に寄った。
そこで思わぬ人物に遭遇した。彼女は少女漫画のコーナーにいた。
ひっそりと近寄って、背後から声をかけた。
「『放課後のアイライクユー』か。あー、それ面白いよね」
びくっと大袈裟なぐらいに肩を震わせて、彼女は振り向いた。
「い、い、市原さん!?」
「や、こんにちは。若月さん」
「あなたが、ど、ど、どうしてここに?」ついさっきまで砂糖菓子の夢に耽っていたのに、まるで万引きでも見つかったかのような慌てようだ。
「どうしてって、本屋に寄るのに理由なんかいる?」
「それも、そうね」
「若月さんも少女漫画とか読んだりするんだね。なんか意外」
「別にたまたま手に取っただけよ。変な勘違いしないでよね」
「あは、五冊も抱えといてたまたまはないでしょ」
「たまたまよ」あくまで言い張る。しかし、漫画を棚に戻す手つきがあわあわしている。
「別に戻さなくていいのに……でも、なんだか可愛い」
「はぁ!?」
「学校じゃいっつもクールに振る舞ってるからさ、ギャップが可愛いなぁって」思ったことを素直に言っただけで、別に冷やかしや嫌味を言ったつもりはなかった。
しかし彼女は、弱みを握られたとでも思っているのか、赤ら顔で唇を噛み締めていた。アーモンド形の瞳が私を睨んでいた。美人さんの怒り顔はおっかない。
誤解を解こうと口を開く前に、若月さんは駆け出していた。
「あ、若月さん!」
二人とも店を飛び出した。
「待ってよ、若月さーん!」
彼女は振り返らない。てか、足速っ!
「待ってったらー!」
やっぱり振り返らない。長い髪を振り乱しながら走る走る。ええい、こうなったら意地でも捕まえてやる!
大鳥島自然公園に着くまで、私達は無意味な追いかけっこを続けた。
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