EP:5 ラプターズ・テリトリー/Raptor's Territory

 新宿方面から代々木方面へと向かうにつれ、地形の変化はより顕著になってくる。本来であれば新宿駅から代々木駅までは距離にしておよそ200メートルほど。本来であればさほど時間はかからない距離だが、しかし東京時空渦災害がもたらした地殻変動がもたらした影響は深く、東京の地形はまるで別物に変貌した。


 倒壊したビルが通りを塞ぎ、陥没した地面から湧き出た地下水が、新たな河川を形作る。災害以前の地図はもはやただの紙切れと言っていいほど役に立たず、自然環境が作り出した道なき道を往くほか、前に進む方法はなかった。


「もうすぐ国立競技場……だよね。地図上ではあとちょっとのはずだけど」


 額に滲む汗を拭いながら、舞華が問う。


「首尾よく行ってあと二十分ってところだな。このあたりは地形の変化が特に激しい。災害以前の地図は当てにならんだろ」


 何度もアノマリー・ポイントへの侵入を果たしている入江だが、日々変容する地形の全てを熟知しているわけではない。災害以前の地形と現状を照らし合わせながら、石橋を叩くように、安全な箇所を選んで進んでいく。それが生き残るための鉄則だ。


 崩れた廃墟が立ち並ぶ道からは、自然に還りつつある東京の風景が垣間見える。舞華は入江の跡を付いて歩きながら、在りし日の街の面影に想いを馳せた。


「前に、ここに来たんだ」

「……例の友達とか?」


 舞華はこくりと頷いた。


「中学が新宿にあったから、よく代々木とかで遊んだんだ。一緒に服買ったり、可愛いカフェ探したりさ……まさか、こんなになってるとは思わなかった」


 中学の頃の記憶が、自然と舞華の脳裏に蘇る。ファミレスで何時間も駄弁ったり、アパレルショップやコスメショップを巡ったり――いつも永理の思うままに振り回されるばかりの舞華だったが、そんな他愛のない日常が楽しかった。


 けれど、太古から訪れた脅威は、ありふれた日々を容赦なく奪っていった。


 アスファルトで覆われた道路は針葉樹とイチョウの森と化しており、所々にヤシやモクレンが鮮やかな花をつけている。かつて通りを埋め尽くしていた商業施設や飲食店は鬱蒼とした樹木に埋もれ、太古の自然は猛烈なスピードで文明社会を呑み込んでいる。朽ちかけたコンクリートと廃墟化した建物だけが、人間が暮らしていた痕跡を、わずかながらに主張していた。


「いつか、ここに戻れる時が来るかもしれない――なんて、楽観的に考える人もいるけど、これを見れば一発で分かる。戻るなんて絶対無理な話なんだって」


 時空渦災害から月日が経った現在でも、かつての東京に帰還することを目指し活動する市民団体や政治組織は複数存在する。日本政府や国連に対するロビー活動や、隔離壁周辺でのデモ活動――しかし荒れ果てた建物に鬱蒼とした植物にまみれたジャングル、そして喉を鳴らして獲物を待ち構える肉食恐竜の群れを見て、果たして同じことが言えるだろうか。


「いくら人が居なくなったとは言え、たかだか一年や二年程度でこうはならない。突然現れた古代生物、度重なる地殻変動に通信機器への不可解な影響……ここで一体何が起きてるのか誰にも見当がついていないうちは、復興なんて到底無理だろうな」


 既に東京は恐竜の世界と化している。人類が生き延びる余地が無い場所だとしたら、生存者の存在を信じるのも、都合の良い妄想でしかないのだろうか。

 

 舞華はひときわ大きなため息を吐くが、再び前を向いて歩き始める。今はただ、前に進むしかない。沢渡永理が生きているのかいないのか。明確な答えを得るまで、舞華は止まるわけにはいかなかった。


 入江が唐突に立ち止まる。


「ダメだな。ここも行き止まりだ」


 入江が立ち止まった先には、巨大な沼地があった。舞華が沼底を覗くと、水草越しに倒壊した建物が沈んでいるのが見える。おそらく時空渦災害発生時の地震により地盤沈下が発生した個所に、流れ込んだ水が溜まっていったのだろう。浅瀬には小さな魚が群れを成して泳いでおり、既に独自の生態系を築いていることを予想させた。


「泳いで行くってのは……」


 舞華が言いかけた途端、少し遠くの水底に、巨大な影がゆらりと蠢いた。


「……さすがに、無しだよね」

「ヘビかワニの類か、もしくは水棲の恐竜か……どちらにしても危険だな」

 

 高い場所に登って、上から迂回できそうな場所を探そう――という入江の提案に従い、舞華たちは別の場所から、廃墟と化したオフィスビルに侵入する。

 

 非常階段は瓦礫で塞がれていたものの、幸い、天井の一部が崩落している箇所から上階に登れそうな部分を見つけることができた。入江は先に上へとよじ登り安全を確認すると、舞華に向けて右手を伸ばす。


「いけるか」  

「へっちゃら……と言いたいところだけど」


 舞華は入江が伸ばした手を取った。無骨な手のひらから力強い感覚が伝わったかと思えば、ふわりと体が浮かび上がる。入江は舞華をいとも簡単に掴み上げると、右手のみの力で勢いよく上階まで引っ張り上げた。


「さすが。女性の扱いに慣れてそうな感じ」

「生憎、その辺の子供よりかは経験豊富なつもりでな」


 舞華の軽口に対し、入江はわずかに微笑んだ。


 上階に登ると、フロアの壁面は既に崩落していた。崩れた箇所からは、変貌した東京の風景が一望できた。景色の中に見えるドーナツ状の建物――国立競技場。東京オリンピックのために全面改築が成されたばかりの国立競技場は、古代のジャングルと化した東京の中でも、その存在を主張していた。


「ねえ、待って。あれ――」


 舞華が指さした先に、白いテントが張られた場所があった。テントの周辺には装甲車両やトラックが複数台駐車してあるのが見え、その周りには兵士がうろついていた。見ると、国立競技場の周辺には似たような場所が点々と存在していた。


U.N.B.E.Rアンバーの調査拠点だろう。俺が前に来た時にはいなかったが……この辺りまで来てたとはな。奴らめ、何が目的だ?」


 双眼鏡を覗く舞華の横で、入江が毒づいた。


 国連直属UnitedNation隔離壁内環境Beyond the wall調査即応組織 Exprore and Response team。通称U.N.B.E.Rアンバー


 国連軍の調査チームが前身となった、アノマリー・ポイント内部の調査や治安維持、緊急事態の即時対応を目的とした国連直属の調査機関。上下ブラックの戦闘服の上からホワイトに塗装されたボディアーマーを纏う兵士たちが、デザートテック社製MDR-Xアサルトライフルを構えながら、周辺警戒にあたっていた。


 双眼鏡越しに兵士たちの動向を窺っていた舞華は、不審な動きに気付く。


「ちょっ、あいつら……」


 テントの周りに拘束された人間が膝立ちにされていた。合計で二人。両手を後ろに縛られ、目隠しをされた状態で、U.N.B.E.Rの兵士に銃を突きつけられていた。目隠しをされた状態で顔は見えないが、体型から推測するにかなり若い男と思われる。


「俺たちの同業か。連中に見つかったのか……迂闊な奴め」


 隔離壁内部への侵入は当然重罪にあたる。罰金あるいは十年以下の懲役――で済めば良いが、実際の所、U.N.B.E.Rに捕まった侵域者シーカーが法に則った手順で裁かれているかどうかは不明瞭な部分があると、雇い主の瀬名円香が語っていた。


 目隠しをされた男たちは、何やら尋問を受けている様子だった。何を言っているかまで聞こえないものの、兵士たちは大声で怒鳴りながら、ライフルの台尻で拘束された侵域者を殴り付けた。片方の男が倒れ込むと、尋問対象がもう片方の男に移る。


「助けなきゃ」


 目の前で唐突に起きた暴力に対し、反射的に舞華が呟いた。なぜ自分の内側から、そんな言葉が出てきたのか分からないほど、無意識に出てきた言葉だった。


「正気か? 捕まったのは気の毒だが、奴らの自業自得だ」

「でも、このままじゃあの人たちが」

「策も無しにのこのこ出てってどうなる。今度は俺たちが捕まるぞ」


 舞華は唇を噛んだ。ぐうの音も出ない正論に、返す言葉もなかった。見ず知らずの相手に命を懸ける義理はない。相手は自分たちと同じく法の網を掻い潜ってアノマリー・ポイントへの侵入を果たした犯罪者だ。彼らを助ける為に自分たちが捕まっては、本来の目的を果たすことさえできない。


 永理の生死を確かめるまでは、立ち止まるわけにはいかないのだ。

 

 しばらく俯いた後、舞華は口を開いた。


「……分かってる。言ってみただけ」

「ならいい。双眼鏡の反射で悟られる可能性もある。先を急ぐぞ」


 舞華は立ち上がり、先へ進もうとした。

 次の瞬間、


「蔵井戸っ!」

 

 足元のコンクリートが崩れたのだと気づいた時には既に遅かった。全ての時間が緩やかに流れるような錯覚の中、入江の伸ばした手が空を切る。


「くっ――ッ!」


 猛スピードで周囲の光景が流れゆく。まだ終われない。こんなところで死んでたまるか――何かを掴もうと空中でもがくも、舞華の体は瓦礫と共に落ちていく。


 これで終わりか――と覚悟した直後、舞華の全身を冷たい感覚が包み込む。息ができずパニックになりかけるも、頭上の光に向けて必死にもがく。

 

「ぶはっ!」


 濁った水から顔を出し、呼吸をする。どうやらビルの下階は水没していたらしく、自然が生み出したプールと化していたようだ。まさしく九死に一生を得たというところか。体中が浮草と藻だらけになりながらも、舞華は必死に陸地へと辿り着いた。


 寝転がった状態のまま、全身で息をする。体中の細胞に酸素が行き渡り、ようやく意識の輪郭がはっきりしてくると、頭上からの声に気付いた。


「蔵井戸! おい蔵井戸!」


 先ほどから何度も呼び掛けていたのだろう。入江の必死な叫びが聞こえる。


「……大丈夫! 生きてる!」

「良かった。動けそうか!」


 手足を動かし、特に痛みや違和感が無いのを確かめる。頭上を見ると、およそ10メートル以上――ビルの5階程度の高さから落下していたことに、舞華の背筋が震え上がる。あれほどの高さから落ちたのに関わらず無傷なのは、まさしく奇跡だった。


「大丈夫。なんとか外に出てみる……向こうで合流できそう?」

「わかった、無理するんじゃないぞ。気を付けていけ!」


 息を整えながら、ゆっくりと周囲を見まわす。上階に登る階段は見当たらない。外に出るためには水没した箇所から浅瀬を沿って歩いていかなければならない。


 舞華はゆっくりと立ち上がった。無謀すぎる自分に対する戒めと思い、今度こそ慎重に歩き出す。



EPISODE:5


"Raptor's Territory"



 膝まで水に浸かるものの、沼地の浅い場所を探せば、歩いて進めないこともなかった。浅瀬にはブーメランにも見える三角形の頭をした両生類――ディプロカウルスがじっと身を潜めていたが、舞華の気配に気づくとすぐに深みへと潜ってしまう。


 沼から陸地に上がると、目の前に再びジャングルが立ち塞がる。先程ビルの上から見た方角が正しければ、ここを通り抜けることで国立競技場付近に辿り着ける。


 そして、先程ビルの上から見たU.N.B.E.Rの拠点もある。


 入江が来るまで動くべきではないと思った。

 しかし頭の中にはずっと、拘束されていた男たちの姿があった。


「様子を見るだけ、様子を……」


 入江がここに辿り着くまでもう少し時間がかかるだろう。ほんのちょっと様子を見るだけ、決して目立つ動きはしない――舞華はそう自分に言い聞かせ、シダやソテツが生い茂るジャングルの中へと歩を進めた。 


 拠点の周辺には簡易的な鉄条網が張り巡らされており、有刺鉄線で恐竜の侵入を防いでいるように見えた。柵の中には複数のテントや発電機が立ち並び、広場の中には装甲車や輸送トラックが駐車してある。


 舞華は茂みの中で気配を殺し、鉄条網越しに様子を窺う。

 

 目隠しされた男たちは、尚も膝立ちの状態で拘束されていた。ライフルを構えたU.N.B.E.R兵たちが男たちに銃口を突きつけた状態で、詰問を続けている。


「いいか、もう一度聞く。お前たちは何を見た?」

「何も見てないって言ってるだろ、いい加減にしてくれ!」

 

 拘束された二名のうち、片方はもはや限界に近い声色だった。反面、もう片方の男はじっと黙りこくった状態で冷静さを保っている様子だった。


「助かりたいなら奴らの居場所を言え。すぐに吐けば悪いようにはしない」

「本当に知らない!何度言ったらわかるんだ。こんな事して後でどうなるか……」


 奴らの居場所? と舞華の頭に疑問符が浮かぶ。


「気づいてないようだな。ここじゃ俺たちが法律ルールなんだ。ここでお前を殺そうが、誰にも気づかれやしない。恐竜の餌になりたくなければ、さっさと――」


 U.N.B.E.R兵がわずかに男から目を反らした、まさにそのタイミングだった。既に精神的にも体力的にも限界が来ていたのだろう。パニック状態と化した男は、膝立ちの状態から立ち上がり、目隠しされたままで走り出した。


 まずい――と舞華が思った時には、既に遅かった。


 U.N.B.E.R兵は躊躇いもせずMDR-Xアサルトライフルを構え、男の背後から発砲した。乾いた三発の銃声がジャングルに響いた後、男はその場に倒れ伏した。


 既に物言わぬ骸と化した男の体から、赤黒い血がじわりと地面に染み込んでいく。


「……っ!」


 目の前で起きた、唐突すぎる死。

 

 突発的に悲鳴が喉元に迫り上がるも、舞華は自ら口を押さえ封じ込める。


 舞華の脳裏に、道中で目撃した侵域者シーカーの死体がよぎる。埋められていた死体には銃で撃たれたと思しき傷跡があった。と入江は推測していたが、犯人の正体に、舞華は自ずとと辿り着いてしまった。


「こいつはどうする」

「どうせ何も吐きやしねぇ。放って置いても面倒だ」


 U.N.B.E.R兵は、もうひとりの男の頭に銃口を突きつけた。


 既に自らの運命を受け入れているかのように、侵域者シーカーの男は微動だにせず、膝立ちの姿勢のまま黙りこくっていた。


 舞華の右手は、いつの間にか腰の矢筒に伸びていた。左手でリカーブボウを構え、呼吸を整えながら弓に矢をつがえた。


 ――いったい、私は何をしているんだろうか。


 真っ直ぐに弦を引き絞りながらも、舞華は自分がしようとしている行動に戸惑っていた。なぜ自分を危険に晒してまで、見ず知らずの人間を助けようとしているのか。


 舞華の脳裏に、二年前の出来事が自動的に再生される。

 永理と繋いでいた手を、離してしまった瞬間のこと。

 目の前で恐竜に襲われた男を助けられず、見殺しにしてしまったこと。


 全ては無力な自分が原因だった。自分自身に能力ちからがあれば、ほんの少しばかりの勇気があれば、永理を置いていかずに済んだかもしれない。助かるはずの命を見捨てずに済んだかもしれない――と、ずっと自分を責め続けていた。

 

 もう二度と、自分の無力を言い訳にしたくなかった。そのためならば、自分の全てを犠牲にする覚悟があった。


 舞華の瞳に明確な意思が灯った途端、指先が矢から離れた。


 放たれた弓は一直線に、U.N.B.E.R兵の右肩へと突き刺さった。U.N.B.E.R兵がもんどり打って倒れると、その隙を察してか、拘束されていた男は立ち上がった。おそらく逃げ出すタイミングを見計らっていたのだろう。男の後ろ手に縛られていたロープはいつの間にか解かれており、舞華たちとは反対方向へと逃げ出していった。


 これでいい、と思い舞華も立ち去ろうとした――が、事はそう上手くは運ばない。


「敵襲だ!」


 倒れたU.N.B.E.R兵が叫んだ途端、周囲に警報が鳴り響いた。拠点全体にサイレンが響き渡り、警戒状態だった兵士たちが舞華の方を向いた。


 舞華はジャングルの中へと身を翻し、勢い良く走り出した。シダやソテツの硬い葉に肌が擦れるが気にはしていられない。すぐに何人もの追手が現れ、後ろから舞華を追いかけてくる。バイクのエンジン音も聞こえはじめ、状況は一層悪くなってくる。


 背後から迫りくる無数の脅威。心臓がどくどくと早鐘を打ちはじめるも、舞華の息が切れる様子はなく、先史時代のジャングルの中を尚駆け抜ける。


 走りながら、中学時代に入っていた陸上部でのことを思い出す。自らが風そのものになったかのように走り抜けた地区大会。短距離走では向かうところ敵無しだった舞華は、将来的にインターハイ出場も夢じゃないと期待される選手だった。


 時空渦災害ディメンショナル・ハザードの発生以降、舞華は部活を辞め、陸上競技から自ら距離を置いた。入院生活で遅れてしまった勉強を、少しでも取り戻したいから――と顧問や仲間には説明していたが、他人を見捨ててまで生き残った自分が名声を浴びて走ることに、途方もない罪悪感を覚えたのが全ての原因だった。


 だが、舞華は再び走り続けている。久しく忘れていた地面を蹴る感覚が蘇り、体が速度を増すごとに、集中力が鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていく。恐怖を感じる暇は微塵もなく、風と自分が一体になった感覚に包まれる。

 

 このまま撒いてやる――と思った矢先。


「ぐっッ!」


 舞華の右足に、突如痺れが走った。舞華は勢いが付いたまま転倒し、泥だらけの地面に顔面を打ち付けた。朦朧とする意識の中、ぬかるんだ地面を這った。真っ赤に染まる右足を目の当たりにして、


 いわゆる脳内麻薬でも分泌されているのか、不思議と痛みは感じなかった。しかし立ち上がろうにも右足に力が入らない。逃げ出すどころかその場に立つ事もままならず、迫ってくる足音から這って遠ざかることしかできなかった。


 U.N.B.E.R兵はすぐに舞華の元に追いついた。無様に這う舞華の体を掴むと、仰向けの状態で銃口を突きつけた。


「……女か」

「若いな。さっき捕まえた男の連れか? 面倒かけやがって」


 捕虜にするつもりは無い様子だった。舞華は地面に倒れたまま、見下ろすU.N.B.E.R兵を睨みつけた。


 そして、運命を終わらせる銃声が響く。


 反射的に目を瞑るも、しかし不思議と、舞華の意識は続いていた。


 うっすらと瞼を開けた舞華の瞳には、頭部から血を流して倒れゆくU.N.B.E.R兵の姿が映しだされていた。何者かによる奇襲に気づいたもう一人の兵士が咄嗟に銃を構えるも、その瞬間に眉間を撃ち抜かれ絶命する。


 目の前に二つの死体が横たわった。と同時に再びの静寂が訪れる。


 鬱蒼とした茂みを揺らして現れたのは、入江甲介だった。


「入江……?」

 

 入江は片膝を付き、舞華の傷の具合を確かめる。

 

「傷は深くない……かすり傷だ。運が良かったな。大腿部の動脈でもやられてたらショック死してるところだった」


 右足のふくらはぎを撃たれていたが、命に関わるほどの重症ではない様子だった。太ももに止血帯を巻いた後、傷口を消毒、脱脂綿を当てた上から包帯を巻き固定する。入江は慣れた手付きで応急処置を終えると、肩を組んで立ち上がらせた。


「殺した……の」


 目を開けたまま絶命している兵士を見て、舞華は呆然とした。自分を助けるためとは言え、兵士たちを入江が射ち殺したという事実が舞華にとって衝撃だった。


「そんなの気にしてる場合か。早くここから離れるぞ……厄介なことになりそうだ」


 すると、新たな追手がジャングルの向こう側に現れた。舞華たちに気づいた追手が再び銃撃を始め、放った弾丸が周辺の木や岩に着弾する。入江はSCAR-Hアサルトライフルを撃ち続け、茂みの向こう側の敵を牽制する。舞華は右足を引きづりながら懸命に進もうとするが、痛みが邪魔して思うように前に進めない。


 何発か牽制で発砲した後、入江は舞華の肩を組んで、巨大な倒木の近くに連れていく。二人は倒木を背にした状態で身を隠し、じっと息を殺す。


「ダメだ。追いつかれる」

「黙ってろ。考えがある。とにかく静かに……気配を殺せ」


 ついに倒木の付近にU.N.B.E.R兵の足音が聞こえた――直後。


 茂みの向こうに見えていた追手の姿が、森の中に消え失せた。

 

 まるで森自体に飲み込まれたかのように、突然兵士の姿が消える。いなくなった仲間の姿を探そうと必死で見回しているうちに、またひとりの兵士がジャングルの茂みに引きずり込まれる。


「来たな」


 入江が何かを察したように呟いた直後、兵士の絶叫が密林の静寂を引き裂いた。


 耳をつんざくような悲鳴が、茂みの中から折り重なって聞こえてくる――と同時に、骨が折れるような鈍い音が何度も響く。僅かに漏れた断末魔を最後にし、先史時代のジャングルは再び元の静けさを取り戻したかに見えた。


 そして、茂みの中から狩人ラプトルが姿を現した。


 乾いた血のような赤褐色の鱗に加え、全身には毒々しげな光沢のある羽毛を纏っている。長い前足には小さな翼が付いており、頭頂部には同じく羽毛で出来た橙色のトサカが生えていた。いかにもダチョウやヒクイドリのような鳥類を連想させる外見ながらも、手足に備えた刃物の如き鉤爪が、自らを恐るべき捕食者と主張している。


「アイ、ツは……!」


 舞華はU.N.B.E.R兵を襲った恐竜に見覚えがあった。


 東京時空渦災害が発生したまさにその時、舞華の目の前に現れたのはまさにこの恐竜だった。何の罪も無い男に容赦無く襲いかかり、生きたままはらわたを啄む残忍極まりない光景は、今でも舞華のトラウマとして脳裏に焼き付いている。


「デイノニクスだ……略奪者ラプトルとも呼ぶ連中もいる。人間様なんかよりよっぽど賢く、よけいにタチが悪い奴らだ」


 デイノニクスはU.N.B.E.R兵の死体を茂みから引きずり出すと、下腹部から新鮮な臓物を千切り取り、口に咥えた。顎の内側には剃刀のように鋭い歯が列を成しており、翼の生えた前肢の先端には、三本の鋭い爪が生えている。まさしく自然界が生み出した殺戮機械キリングマシンと言ったような形相の生き物に、舞華は戦慄する。


「まさか……奴らを利用したの」

「奴らは獲物の気配に敏感だ。


 舞華は右足の傷を見て気づく。


 デイノニクスは舞華自身の血の臭いに誘われたのだ。入江はデイノニクスの特性を理解した上で、舞華の傷を利用しU.N.B.E.R兵を襲わせた。顔色ひとつ変えずに冷徹な行動を取れる入江を、舞華はこの時末恐ろしく感じていた。


「残念だがここは奴らの縄張りだ。出来ればこの辺りには足を踏み入れたくなかったが……今は別問題だ。あとはどう、ここから出るかだが」


 デイノニクスはしきりに首と目を動かし周囲を見回している。ひょこひょことした挙動はニワトリなどの鳥類を連想させるが、実際はヒョウやジャガーのように俊敏な捕食者だ。琥珀色の眼球は見るもぞっとする知性と狡猾さを湛えており、ジャングルの中に潜むであろう次なる獲物を探し続けている。


 倒木の影から見えるデイノニクスは一頭――だが、周辺の茂みに仲間が潜んでいることは間違いない。既に舞華たちの姿を捉えており、獲物の首に牙を突き立てる瞬間を、今か今かと待ちわびているに違いない。


「蔵井戸、よく聞け。返事はしなくていい」


 入江はごく小さな声で、舞華に耳打ちをする。


「この先に大きな川がある。地図にはない川だが、流れに沿って下流を目指せば、おそらく渋谷方面に着けるだろう。あいにく渋谷方面はまだ未開の領域だが――今の状況よりよっぽどマシだ」


 舞華は黙ったまま頷いた。


「俺が囮になる。俺が合図したら走るんだ。いいな」


 入江がSCAR-Hの弾倉を外し、残った弾の数を確かめる。

 

 でも、と舞華は口だけを動かした。


 自分が招いた状況で、入江が危険な目に遭うと思うと耐えられなかった。いくら入江が経験豊富な侵域者シーカーとは言え、相手は地球の歴史上、過去最大級に賢いと言われる捕食動物だ。あと何頭敵が隠れているか分からないにも関わらず、囮になるなんてあまりにも無謀過ぎる――と舞華は不安げな表情で、入江を見た。


「反論はなしだ。お前を護衛するのが俺の仕事だ。貰った報酬カネの分の仕事はしてやるさ……足手まといが嫌だったら、黙って指示を聞け」


 足手まとい、と言われてしまうと舞華に返す言葉はなかった。僅かな逡巡の後、舞華は決意を伴って頷いた。入江は舞華の決意を確認すると、倒木の影から再び様子を伺う。デイノニクスは相も変わらず、仕留めた獲物の臓物を咀嚼している。


「よし、今だ――行け!」


 合図と同時に、入江が倒木の影から飛び出した。その途端、が痺れを切らしたように襲いかかってくる。


「クソっ……賢いやつめ!」


 入江が飛び出した途端、舞華は一目散に走り始めた。傷を負った右足を動かす度に鋭い痛みが全身を貫くが、今更気にしている場合ではなかった。足を引きずった姿勢のまま、ただ前だけを見据え、走り続けた。


 真横の茂みが揺れた途端、舞華の目の前にデイノニクスが立ち塞がる。甲高い鳴き声での威嚇に対し、反射的に身構える。


 デイノニクスは既に跳躍の姿勢に入っていた。後ろ足の強靭な筋肉が躍動し、草刈り鎌を思わせる湾曲した鉤爪シックル・クローが禍々しげにぎらつく――まさに進化の果てに生み出された自然界の凶器。『恐ろしい爪』という意を示すデイノニクスの名に相応しい武器だった。

 

「どいて!」


 舞華は咄嗟の判断で、腰のベルトに下げていた熊避け用催涙スプレーを引っ掴む。対人用に作られた催涙スプレーよりも数段カプサイシン濃度が高い護身具であり、目や鼻など急所を狙えば、例え相手が猛獣だろうと一時的に身動きを止めることができる。舞華は瞬時に狙いを定め、熊避けスプレーをデイノニクスの顔に向け噴射する。


 スプレーの噴射を食らったデイノニクスは苦悶の声を上げ、その場にもんどり打って倒れる。恐竜は人間よりも嗅覚などの感覚器官が発達している反面、粘膜経由のダメージは相当に大きい。地面に倒れもがき苦しむデイノニクスを横目に見ながら、舞華はジャングルの中を駆け抜けた。


 すると、突然視界が開け、目の前に巨大な河川が現れた。かつては地下施設だった場所に水が流れ込んだのか、どこまで続くとも分からない急流が舞華の前に立ち塞がっていた。易々と渡れるほど簡単な場所ではなさそうだった。


 舞華は肩を上下させながら振り返ると、程なくして入江が追いついた。


「奴らは?」

「まだだ、立ち止まるな。他にも仲間がいるはずだ。油断す――」


 と言いかけた入江の背後に、巨大な影が過ぎる。警告しようと舞華が口を開いた瞬間、既に入江はライフルの引き金に手をかけていた――が、既に遅かった。再び現れたデイノニクスは後肢の鍵爪を振りかざし、甲高い雄叫びと共に入江に飛び掛かる。


 組み伏せられた状態のまま、入江はライフルを盾にもがき続ける。今度こそ助けなきゃ――と舞華は再びリカーブボウを構えるも、その直後にジャングルの茂みが揺れ、デイノニクスが続いて二頭、三頭と飛び出した。徒党を組み現れたデイノニクスは獲物との距離感を測るように琥珀色の眼で睨みつけながら、低い音で喉を鳴らす。


「さっきの奴の仲間か……!」


 デイノニクスは群れで獲物を追い立てる捕食動物プレデターだと、舞華は事前に渡された資料を見て知っていた。自分自身が狩られる側になって、初めて脅威を実感することになるとは――舞華は青ざめた表情で、無意識にその場から後ずさる。

 

「俺に構うな!必ず後で追いつく!」


 デイノニクスに組み付かれたまま、入江は必死でもがき続けている。彼を放って逃げ出すなんて有り得ない――と思いつつ、群れを成して牙を剥く肉食恐竜の脅威に対し、舞華はあまりにも無力過ぎた。


 舞華が取れる選択肢は、もはやただの一つしか残っていなかった。


 デイノニクスが跳躍の体勢に入る。舞華との距離はおよそ3~4メートルほど。獲物を狩る為に発達した後ろ脚にかかればもはや彼我の隔たりなど無いに等しい。常軌を逸した跳躍力にて放たれる鉤爪の一撃を喰らってしまえば最後、生身の肉体など易々と引き裂かれてしまうことは間違いない。


 舞華は唇を噛み締めると、忸怩たる思いで目の前の川へと飛び込んだ。全身が冷たい感覚に包み込まれた途端、激しい流れが舞華を襲い始める。荒れ狂う川の流れに揉まれる中で、溺れないよう必死で姿勢を保つ。なんとか水面に顔を出し、息継ぎをするだけでやっとだった。


 遠くに離れた川岸から、デイノニクスの鳴き声と何発かの銃声が響き渡る。


 それを最後に、入江がいた方向からは何も聞こえなくなった。


 入江ならきっと生きているはず。あまりにも無責任な希望を抱く自分は、このまま溺れてしまえばいいのかもしれない――そんな思いを抱きながら、舞華の生存本能は、そのまま川の骸として沈むことを最後まで許さなかった。


 気がつけば、どこかの浅瀬に舞華は流れついていた。必死に泳ぎ切った結果、体力は限界に近く、立ち上がることすらできなかった。意識は熱病に侵されたように朦朧として思考の掴みどころが無く、息をすることすらやっとだった。


 舞華の瞼は疲労で鉄のように重たくなっていた。入江はいったいどうなったのだろうか。デイノニクスの群れに襲われて、果たして逃げることが出来たのだろうか――と、曖昧な意識の中、考えを巡らす。


 ――またしても、自分だけが逃げ延びてしまった。


 舞華の中に途方も無い絶望感が広がっていく。今度こそ同じ過ちを繰り返さない為に、今までの日々があったはずなのに、再び自分の無力さが原因で犠牲を生んでしまった。


 先史時代の環境と化した東京の中、舞華はついに独りぼっちになってしまった。


 こんな状態だ。肉食恐竜に食べられても自業自得だ――と思いながら、舞華の意識は途切れた。

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東京絶滅領域:ジュラシック・トーキョー 零井あだむ @lilith2nd

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