2:最近どうにも様子がおかしい

 株式会社ミナト工業。

 ミナトグループの代表企業であり、精密機器やその部品の製造を主にする大企業である。

 設立は大正時代にまで遡り、当初は照明器具部品の生産から発足した町工場であった。戦後の荒波を乗り越え、バブルを期に爆発的な海外進出を成し遂げた軌跡は、近隣小学校の教科書を飾るほど。

 今現在、本社機能は首都圏に移し、工場も日本ならず世界各地へ広がっているものの、生誕地である本所工場は今もって生産拠点として存在感を大きくしている。

 日本海に面した広大な敷地に第四までの工場を持ち、外郭を関係企業で埋め尽くす様は『現代の本所城郭』と揶揄されるほどだ。

 無論出入りは厳重であり、出入りする資材や金銭も目が回るほど。

 そんな城門であり台所となる『総合事務局棟』の総務部が、佐々木・彰示の職場であった。


      ※


 ミナト工業本所工場事務局総務部出入管理課。

 そんな長々しい肩書をネームプレートに刻む『翠洲・江みどりす・こう』には、憧れている二つ上の先輩がいる。

 口数は少ないが、物腰は柔らかく。

 工場の各ラインにおける性格を網羅できるほど優秀で。

 資材と製品の出入り管理が完璧なうえ、製造機器の内部構造にも明るく、工場長や設備課の信頼も厚く。

 ちょっと強面だけど、鋭い系のイケメンで。

 なにより、三〇の誕生日を境にして、なんだか横顔が眩しくて。

 理由もわからず、その深味ある横顔に見入ってしまうのだ。

 彼の名前は、佐々木・彰示。

 いつも休む暇なく、パソコンか電話と格闘している敏腕の事務員である。

 今も、業務時間の只中の今も、書類の隙間から覗き見てしまうほどの男ぶり。

 入社当時からいろいろと教わって、時間を経るごとに気付く魅力が数を増していき、今では目が合うだけで胸が大きく鳴ってしまうほど。

 なにより、女性の噂を聞かないのが最高だ。

 けれども。

 そんな憧れの先輩だけれども、江には懸念がある。

 最近、どうにも様子がおかしいのだ。


      ※


 折に触れ、目頭を抑えては揉みしだく。

 ふとした時に、あくびをかみ殺している。

 頬や額や手に、擦り傷のような小さな傷を多々見受ける。

 スーツの着回しサイクルが早まった。

 なんなら、一度しか見ないスーツもある。

 そのスーツのポケットに、ポリ袋を忍ばせている。

 硬くて長い物が目に入ると『あるいは……』とか呟いて手に取る。

 などなど、だ。

 どうにも様子がおかしい。

 けれど、まあ、きっと疲れているのだろう。

 聞けば、御両親を早くに亡くされて、年の離れた妹さんを県外の大学に通わせているとか。

 きっと心労やら何やらが、噴き出しているのだ。スーツはあれだ、オシャレに目覚めたのかもしれない、きっとそうだ。

 キーボードを叩きながらあくびを隠し切れずにいる様子を、見守っている自分に言い聞かせる。

 コーヒーでも差し入れようか、なんて企んでいると、

「佐々木くん。ちょっと、いいかい?」

 事務室のドアを開けながら、課長が先輩を呼びつけてきた。

 呼ばれた彼はすぐさまに立ち上がると、先刻のあくびを微塵も見せない堅い面持ちに。

「どうしました? トラブルでも?」

「いや、そうじゃない。君にお客さんでな……その顔だとアポなしか」

 首を傾げる様子に、課長は当惑したように目を泳がせる。

 はて、と江は不審がる。

 職場に、それもセキュリティが尋常ではない大企業であるミナト工業に、アポなしで訪れる無計画な人間がいるものなのか、と。

 そんな無計画な人間を、入出ゲート管理が通したのか、と。

 通したとして、当人に一報もない、なんてことがありえるのか、と。

 先輩のみならず事務室にいる課の全員が、疑問の顔で課長に視線を集めている。自分も例外ではなく、なんなら合法的に課長の隣にいる先輩をガン見できるチャンスだ。

 彰示が、困り顔で状況の進展をうかがっていく。

「えっと、どちら様ですか? 社外の方だと、運送関係とか?」

「いや、違う。その、ああ、説明が難しいな。私も、混乱しているんだ」

 小太りの課長が困り惑っているのは、額を照らす汗の量にもわかる。いやまあ、いつも暑い暑いとエアコン温度を下げているから、普段通りではあるものの。

「その、要領が……お待たせしているんですよね? すぐに……」

「いや! その、だね! 私は、君を信用しているよ⁉ だけどね!」

 不可解なことに、廊下へ出ようとした彰示を押しとどめる始末だ。

 皆が剣呑な空気を感じ取り、

「佐々木さん、なにかあったのかしら?」

「課長の言葉の濁し方……女が乗り込んできたのかも?」

「え? 佐々木さん、未婚でしたよね? それで修羅場て……ヤバくない?」

 口々に、状況証拠で現実を模っていく。

 背に囁かれる声に当人は意に介さず、上司となるメッセンジャーに詰め寄る。

「いろいろと分かりかねますが、とにかくお会いします。トラブルなのでしょう?」

「待て! 待ってくれ! なにもないと! なにもしていないと約束してくれ! 頼む!」

「課長、主語が不明瞭です。よって、約束は出来かねます」

 押しのけようとする部下に縋りつく上司。

 なんだこの絵面、と全員の混乱がピークに至ったところで、廊下より人影が現れた。

「ごめんなさい。時間がかかるようだったから、こちらからうかがったわ」

 シルエットは、子供のそれ。中学生ほどの手足の細さだ。

 眼差しは意志の強さに光ぬめり、口元と頬は大人に負けぬ厳しさに締まっている。

 体躯以外はおよそ子供からぬ少女の姿。

 無論、誰もが張り詰め、息を呑む。

 相手は子供。

 トラブル、つまり修羅場の濃厚な気配。

 課長の『何もなかったんだよな⁉ な⁉』と縋りつく姿。

 その場にいる全員が『三〇歳未婚はやっぱやべぇんだな』という空気に。

 江も、彰示に『女性の影がなかった理由』に突き当たってしまったのか、と昏い感情に火を掛けたところで、

「……湊、さん? どうしてここに……?」

「佐々木くん! 桐華お嬢さんと、本当に何もないんだよね⁉ ね⁉」

 煮立つ前に、

「桐華って、社長の娘さんじゃなかったか?」

 隣席のかなりな先輩が、小首を傾げて少女の正体を判じてくれた。

 けれど、そうなればもう一つの疑問が膨らみ沸き立つ。

 その中学生の社長令嬢に手を引かれて事務室を出ていく、自分が憧れる『三〇歳未婚』の先輩は、つまるところいかな関係にあるものなのか、と。

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