第五章:『私』を信じる『あなた』の声に
1:決死の結び目
風が、側頭部を撫で、頬を掠め、過ぎ去っていく。
肌を削ぐような初夏にあるまじき突風が、ジェントル・ササキの体を手厳しく洗い回していた。
血を大きく失った体は、けれど寒さに慣れてしまっている。あるいは、数多の傷に皮膚が鈍くなっているものか。
濁る瞳を、負傷の原因となった岩石へ注ぐ。
どうして、という疑問を込め見上げる。
あの瞬間、激しい爆発によって体を削られた対象は、完全に沈黙していたはずではなかったか。
動く余力があるのなら、継戦にしろ退避にしろ、どうして一時の活動停止などしたのだろうか。
人間でいう気絶にあたる反応や、野生生物のような擬死を行う習性であろうか。神経を持ちあわせているとは思えない体で?
あるいは、こちらの接近に反応した? もしくは『死』を回避するための一手?
疑いが湧いて、憶測となって弾けていく。
けれども何もかも、すでに頭上の彼方だ。
一割以下まで砕かれたとはいえ、未だ巨体だ。そんなマレビトが、手を伸ばせば握れそうなほどまで遠のいている。
もちろん、対峙する少女たちの姿など遥か闇の中。
賢明だ、と魔法使いは笑う。
町へ迫る脅威に背を向けたなら、この動くのもままならない死に体を助けようと駆けつけたなら、きっと自分はひどく憤っただろう。
けれど『彼女』は、自分の『責務』を果たすことを選んだのだ。
嬉しいことだ。
自分などいなくとも、道を見据え、自らの足を信じ、前へ進んでいく勇ましい姿を見ることができて。
それはつまり、
「……信じてくれている、ってことだもんな」
生還することを。
サイネリア・ファニーとストライク・クローバーは、ジェントル・ササキが高高度から地表に叩きつけられんとしていても、生きて還ることを信じてくれている。
ならば、己の責務は明快だ。
彼女たちの決断を『疵』にさせてはならない。
ここで自分が命を落としたのなら『信じて見送った』という前進が『見捨てた』という不徳に悪転してしまうだろう。
女性、それも守るべき若輩に、傷を負わせて平気でいられるほど、彼は羞恥心を摩耗させてはいない。
だから、足掻く。
四肢のどこにも力が入らなくとも。
体を削らんばかりの突風に晒されようとも。
致命に至る速度が地表を目指していようとも。
気圧差から甲高く喚き続ける耳鳴りに鼓膜が痛もうとも。
何としてでも、あの子たちの足かせになどならないがために。
放り投げ胸元まで届けてくれた『蜘蛛の糸』に、臆面もなく縋りつくのだ。
無線機が、ノイズを吐き出し始める。
また一本の蜘蛛の糸が、今度は地上から放たれたことを教えてくれるのだ。
思わず、口元がほころんでしまう。
この非凡な身を、信じ、助けようとしてくれる人の多さに。
嬉しくて。
だからこそ、応えなければならなくて。
※
「ササキさん! 応答してください! ササキさん!」
断崖の蔓に縋るかのように、静ヶ原・澪利は無事の応答を求めてマイクを握りしめる。
落下を続けるジェントル・ササキの体は、すでに無線通信範囲の半ばを過ぎており、であるが、聞こえているはずの呼びかけに返るのは沈黙のみ。
地上からは衛星からのデータによって、戦場の状態をつぶさに見守ることができていた。映像や音声はなく届けられる数値ばかりであるが、マレビトの体積の減少や軌道方角の変遷から、独断で先行した魔法使いの奮戦は誰もが目を見張り、
「ジェントル・ササキ、地表より五〇〇メートルを切りました!」
「落下予想地点は、駅前市街地! 十五秒後です!」
「呼びかけに反応なし! 生死確認できず!」
声を返すこともできないであろう満身創痍が高度を落としていく様を、絶望に塗った瞳で追いかけるしかできない。
たとえ、彼が埒外のコモンによって常識外れた身体強度を持っていようとも、上空三〇〇〇メートル付近からのフリーフォールに耐えられるわけがない。まして、受け身もままならない大きな傷を負った状況で。
だから、誰も祈るしかない。
重さと暗さを張り詰めて。
やがて帰ってくるであろう、彼が救った『彼女達』へかける斟酌の言葉を探しながら。
「残り一〇秒!」
「ライブカメラが確認! 映像来ます!」
だから、即興で構築された指令室である組合事務所に詰める誰もが、その瞬間を逃すまいと顔を上げる。
繁華街の、夜を照らすには乏しい光の中、小さな『点』が降下し続けていく。
しかし、どうしてか、暗がりの一点を明確に追うことができるのか。
けれども、カメラがズームしていくことで氷解。
腕の中で、何かが発光をしているのだ。
街の灯を圧倒して彼の輪郭を際立たせ、シルエットそのものは深い黒につぶして。
「彼を中心に空間歪曲を確認! あのテスト機が……!」
「制御を外したのか⁉ しかし、どうして!」
「五秒前!」
カメラは、高速度を追いかけながらさらにズームを続ける。
近づくネオンが、影を払い、魔法使いの体を闇から光へ塗り返していき、
「あれは……!」
露わになる死地を眼前に据えた男の姿に、誰も息を呑み込み、声を失う。
体は斑なく擦過と打撲と流血に染まり。
地表を見下ろす頭は力なく垂れ。
左手に輝く『命綱』を抱きかかえ。
右手は空へ伸びる『命綱』を掴み縋る。
皆。
緊急事態に残業を承諾した一般職員や事務員も。
監督たる大瀑叉・龍号と堂賀林・銀も。
通信機前を譲らなかった静ヶ原・澪利も。
一人として余さず、疑問を握り掴まされる。
ジェントル・ササキは、ほぼ徒手空拳で敵へと向かったはずだ。
左手に抱くバックパックの残骸は、後詰の二人が持ち込んだうちの一つであろう。
なら、右手から伸びてはためいているものは?
※
彼が持ちえた装備は、通信機に、その辺で拾った『魔法の杖』と、いつもの『衣装』しかない。
「減速しました!」
望遠を最大に引き延ばした定点カメラが、速度故の画像処理限界から解き放たれ、死地より生き帰った戦士の鮮明な雄姿を映しだせば、
「……そう、だな。装備を考慮すれば、当然だ」
彼に苦境を強いた龍号が苦く呟き、全員が小さく頷く。
誰もが『どうして』という、痛みと、後悔と、取り返しのつかなさに、頬を濡らして。
たなびくのは魔法使いが持ちえることができた僅かな武装である『衣装を結び合わせた』もので、当然、
「ライブカメラ、配信切っていたか?」
『空を往く三十路童貞の全裸』が、少し遠景ながら全世界に配信されてしまっていた。『HONJYO LIVE』の字幕と共に。
誰もが『どうして……』と言葉を失い立ち尽くす。
見守る人々の、なにより彼の無事を祈っていた元魔法少女の視線の先で、ジェントル・ササキは、
「速度を殺しきれなかったようですね……おっと、よだれが」
理解に苦しむ手段で減速はしたものの、完全とは言えず、
「ジェントル・ササキ、ビルに衝突します!」
口元のじゅるじゅるを拭いながら澪利も、窓の外、繁華街方向からエラい破壊音が響き渡るのを聞くのだった。
※
がれきの中、抜けた幾つもかのフロアの向こうに見える小さな夜空。魔法使いは、霞む目で見上げやる。
綱渡り、であった。
力の入らない腕でバックパックの外装を破壊し、リミットを切れるか。
震える指先で衣服を脱ぎ、結び合わせられるか。
それらを、地表に叩きつけられるまでの、僅かな時間で成し遂げられるか。
全てを成し遂げ、そのうえで機械を制御できるものか。
針の糸を通すがごとく、である。
姿勢制御の不可能な降下中、上下方向に限られた影響範囲では目的を達することができず、故に先日『騒乱のベルゼブブ』が振るったようにリミットを排し、全天へ向くように。
そも、サイネリア・ファニーやストライク・クローバーが楽々と空を飛んで見せたバックパックはどうにも自分と相性が悪く、なので衣服をなるべく長く伸ばし『引っ掛かる』可能性を押し上げて。
そのうえで、多階層の建築物に突入、フロア毎の壁材を多段のクッションとして、
「生きて、いるなあ」
どうにか『彼女』たちの疵にならずに済むことができたのだ。
全身が痛んで、立ち上がることも難しい。が、
「そんなの、最初からじゃないか」
だから、状況は良に向かうか、少なくとも維持されている。
いずれ、組合から救助が訪れるだろう。
そうしたなら、次の手を積まねばならない。
この身を信じてくれた『彼女たち』の助けとなるために。
目の当たりにした『疑惑ら』のもつれ具合が『想像通りの結び目』となるのなら、危機が残り危急が迫るだろう。
また『結び目の先』を握る者が憶測の通りであれば『解きほぐす』のも、決して難しいことではないのだから。
たわみ続ける視界を、けれども力だけでも込めなおして、展望を見据えていく。
意識が遠のく手前で、わずかでも思案の時間を握りしめんがために。
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