第35話 反撃の狼煙
幸福が突然やってくるように、不幸も突然やってくるものだ。そして、それはこの世界でとてもありふれたことで、いつでも誰の身にも起こり得ることだ。
たとえ自分の身に何かが起きたとしても、時計の針が止まるわけでもなければ、世界が終わってしまうわけでもない。世界はそのまま何事もなく動き続けるし、ほとんどの人がそんな不幸があったことを知らないまま生活する。きっと、世界とはそんな少し悲しいものなんだろう。
そんな抽象的で子供じみた空想を、ありふれた少女―――とは少し違うアンネはレイルラン劇場の2階にある稽古用の広間から、目の前に広がる雄大な空を見上げながら考えていた。
「とんでもないことなんだよね……たぶん……」
アンネは昨夜起きた出来事を振り返りながら、自分の胸の内に確認するように独り呟いた。
結局よくわからないまま助けられ、あっという間に自警団で保護されて、無事レイルラン劇場まで帰ってくることができた。きっと奇跡的な運命のいたずらの結果なのだとわかっているけれど、アンネはそれをあまり実感できていなかった。
何というか、「階段で転んだけれど、たまたま一回転して着地した」みたいな感覚だ。もしかしたら、今頃アンネは“ありふれた不幸”に巻き込まれていたのかもしれない。でも、こうして日常を過ごしていると、まるで無かったことのように思えてきてしまう。
そんな風にアンネが自分の中にあるモヤモヤした感情を持て余していた時、メイナが血相を変えた様子でドタドタと広間に駆け込んできた。
「ちょっと、アンネ!冒険者に襲われたって本当?!」
「あ、うん……冒険者かどうかはわからないけど、きっとボストクさんが言ってた"最悪の事態"が近付いてきてるのかも……」
焦ったまま一気にまくし立てるメイナとは対照的に、アンネはまるで他人事のように冷静に返事をする。
だが、メイナはぼんやりしたアンネの返答を聞くよりも早くそばまで近寄ってくると、アンネの頬に手を当てて異常がないかあちこち確認しはじめた。
「怪我は…?!どこか痛むところはない??メイが治してあげるから!ほら、腕出して!」
「ちょ、ちょっと!メイナ、落ち着いて?昨日は変な冒険者の人に助けてもらって追い払ったから、もう大丈夫だよ。怪我もしてないから、ね?」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!自警団に言って護衛でも何でも付けないと…!」
緊張感の欠片もなく、ボーっとしたままのアンネを見て、メイナが苛立ちをありありと表情に浮かべる。怒りというよりは過度に心配しているのだ。
アンネはいつもと全然違うメイナの様子に呆気に取られ、勢いに押されるようにたじたじとなってしまう。
「そんな大袈裟な……」
「いや、メイナの言う通りだ。こうしてアンネが狙われたからには、何をするにしても対策を取らなくてはならないだろう。それこそ、何かあってからでは遅い」
「わたしも、できることは、やるから」
遅れてティルザとノエルが広間に入ってくる。
ティルザは真剣な眼差しでアンネをたしなめ、ノエルは安心させるように朗らかな表情でアンネを気遣ってくれていた。いつも通りのニフティーメルの姿だ。けれど、この時のアンネにはそれがとても特別なものに感じられた。
胸の奥から言葉に出来ないようなぽかぽかとした火照った感情が湧き上がってくる。そして、ふわふわと浮いていた心の焦点がストンと急降下してきて、一気に気持ちが冴え渡った。
「メイナ、ティルザ、ノエル……みんな、私は大丈夫だから。それにちょっと安心してるんだ」
アンネは少し俯きながら笑ってみせた。家族同然の大切な仲間たちの言葉を聞いて、ようやく自分の感情が腑に落ちたから。まだ実感は湧かないけれど、事実はよくわかっている。
「あんな奴らに負けてたまるか、ってね」
負けたくない。それがアンネの答えだった。
昔からそうだった。負けたくないから頑張るし、諦められないから努力をしてきた。だからこそニフティーメルとしての今があるんだ。
けれど、今回ばかりは頑張ってもしょうがない、と心のどこかで勝手に決めつけていた。この劇場がなくなってしまうのもしょうがないし、ニフティーメルの行き場が見つからないのもしょうがない。それはこの世界で起きている“ありふれた不幸”の一つに過ぎないから。
でも、違ったんだ。相手はすぐそばにいて、自分たちの力でそれに抗うことができる。昨夜実際に目の当たりにして、ようやく気付くことができた。
どう転ぶかなんて知ったことじゃない。走って、走って、走って、隣にみんながいればそれでいいんだ。
「はぁ〜…アンネ、負けず嫌いなのはわかるけど、時と場合ってのがあるでしょ」
「いや、こんな時だからこそだろう。無闇に戦うべきではないが、私たちが折れるわけにもいくまい」
呆れ果てた様子のメイナに、待ったをかけるようにティルザが口をはさむ。
常に生真面目なティルザがアンネの無茶を容認するのはとてもめずらしいことで、メイナも一瞬だけ目を丸くして思わず怯んでしまった。
だが、メイナもすぐに気を持ち直すと、ティルザをキッと睨んで食って掛かっていく。
「ティルザ、あんたねぇ…アンネが心配じゃないの?!」
「もちろん心配だ。それはもう今すぐにでも襲ってきた冒険者共を叩きのめして、アンネを安全な場所に預けておきたいさ。だが、私たちが決めた事だ。一周年ライブまでは何としてもこの劇場で舞台に立ち続ける、とな」
「メイナも、言ってた、でしょ?みんなで、アンネを支えるんだ、って。違う?」
ひたすらにアンネの身を案じているメイナ、心配だけれど意志を尊重してあげたいティルザ、優しく包み込んでくれるノエル。それぞれの考えが交錯し、気持ちがすれ違っていく。でも、目指している場所は同じだった。
それがわかっているメイナは、先日話し合ったことを引き合いにティルザとノエルに諭されて悔しそうに顔を歪めた。
「それは……そうだけど……。でも、このまま泣き寝入りするわけにはいかないじゃない!」
「うん、それはメイナの言う通りだと思う。私も皆には危ない目にあって欲しくないし、あんな奴らのせいで
アンネはメイナの言葉をきちんと受け止めてから、安心させるように力強くうなずいた。
誰よりも心配してくれているメイナだけじゃなくて、ティルザやノエルもニフティーメルを守ろうとしてくれている。そんな皆のためにも、私がやらなくちゃいけないんだ!
「だから、私に考えがあるの」
アンネはその眼差しに滾るような炎を宿したまま、静かに仲間たちの目を見つめた。
やられっぱなしは性に合わない。今こそ反撃の狼煙を上げる時だ。ニフティーメルは、まだ終わらせない。
☆☆☆
翌日、ニフティーメルの面々はそわそわと落ち着かない様子でレイルラン劇場の広間に集まっていた。そして、扉の前でひそひそと声を潜めながら、これからやって来る“誰か”を待ちわびていた。
「ねぇ、アンネ……これから来る護衛の人って、本当に信頼できるわけ?」
「私も誰が来るかは知らないんだけど、リンダさんに頼んだから間違いないよ。それに、私達について詳しい人に心当たりがあるって言ってたから、きっと話もしやすいんじゃないかな?」
「頼りない輩だったら私がはっ倒してやるさ」
「ティルザ、それ、よくない」
「は、ははっ…冗談さ!メイナ、私がそんな野蛮なことをすると思うかい?」
「あんたならしかねないでしょ。前にも騎士道が~とか言って騒ぎになったじゃない」
「ほら、みんな、静かに!来たみたいだよ」
外から近付いてくる足音を聞き取ったアンネが、ざわつくメンバーたちに落ち着くようたしなめた。
足音は二人分。片方は支配人であるボストクのものだから、もう一人が今回来てもらった助っ人ということになる。一体誰が来るのだろう…と一抹の不安を抱えつつ、扉が開くのを息を呑んで待っていた。
「では、こちらに」
「ああ」
浮ついた雰囲気の中、広間の扉が開き、ボストクに連れられてとある男性がゆっくりとした足取りで入ってくる。
良い装備とはとても思えない貧相な装いに、取って付けたような不愛想な表情。そして、異様に堂々とした立ち居振る舞いが特徴的な冒険者だ。
「え〜…こちらが―――――」
「あぁ~〜っ!!あなた、この前の……!?」
入ってきた人物を見て、アンネが思わず大声をあげた。見覚えがある、なんてレベルじゃない。ついこの間、街中で遭遇したばかりだ。
まさか信じられないという驚きと妙に腑に落ちた気持ちが混ざり合ったアンネの視線の先で、その男は視線を逸らすことなく真っ直ぐに前を見た。
「冒険者をやっているイツキだ。よろしく頼む」
こうして不愛想な冒険者の男は若干引き攣った表情のまま、自身の推しであるニフティーメルの前に立ったのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます