第29話

しばらく黙ってソファに座っていると、コーヒーのいい香りが漂ってきた。


 二つのマグカップを手に持って、悠一郎がすみれの戻ってきた。


 悠一郎はコーヒーにミルクが入ったの方のマグカップをすみれの前に置いた。


「ありがとう。いただきます。」


すみれは沈んだ声で言った。


悠一郎はすみれの隣にあるカウチに腰を下ろし、自分の分のブラックコーヒーを一口飲んで


「河村さんのことなんだけど。」


とゆっくりと落ち着いた口調言った。


「俺は自信がなかったんだ。」


普段自分の事を「私」や「僕」と表現する悠一郎が「俺」と言うのきいて、すみれは初めて悠一郎の本当の姿を見たような気がした。


「自信がなかったって?何が?」


「昔から勉強と仕事ばっかりで、女性に触れる機会がなかったんだ。君に出会うまでは恋愛や結婚にさほど興味がなかったから、それでもかまわないと思っていたんだ。」


悠一郎の意外な告白にすみれは驚いた。


それから悠一郎はゆっくりと自分の過去を話し、すみれは悠一郎の話を黙って聞いた。


悠一郎は女性経験がなかった。

出会いがなかったわけでもなく、チャンスが全くなかったわけでもない。


悠一郎と付き合いたいという女性は山ほどいたが、悠一郎がなかなか相手に興味を持つことが出来なかった。


何度がデートをしたり、食事をする相手はいたが何もしない悠一郎に痺れを切らし、いつも女の方が離れて行った。


悠一郎はすみれとで出会った瞬間、この女性が運命の相手だと思った。


だがいざ結婚したら、どういう風にすみれをベッドに誘えばいいかわからなかった。


すみれを大切にしたいと思えば思うほど、自分の欲望をすみれにぶつけることで、彼女を傷つけてしまうのではないかと不安になった。


どうしてもすみれに触れることが出来なかった悠一郎は、出張先で酒に酔った時、美紅をすみれの身代わりにしてしまった。


酔った勢いで美紅を抱いてしまったことを激しく後悔した。


記憶がないとはいえ、自分の犯した罪をなかったことにするわけにはいかない。


美紅との関係はもう持たないと思い何度も話合おうとしたが、その度に「迷惑はかけない。家庭を、壊すつもりはない。」と泣き付かれ、ズルズルと関係が続いてしまった。


悠一郎は美紅をすみれの身代わりのように扱ったことの後ろめたさもあった。


「そっか。私にも責任があったのかな・・・ずっと待ってるばっかりで・・・」


すみれはポツリとと言った。


「いや、すみれは何も悪くない。全て僕の責任だ。今後どうするか、改めて話し合おう。君の要求を全て受け入れるよ。」


すみれは悠一郎の言葉に黙って頷いた。


「すみれ、初めて僕の前で泣いたね。こんな時に不謹慎だけど、本当の君を見られたようで嬉しいよ。」


そう言って悠一郎はリビングが出て行き、軽く荷物をまとめてマンションを出て行った。

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