第5話

すみれはカウンターの中で仕事を進める透真と話ながら、ゆっくりと透真が作ったバイオレットフィズを味わった。


 すみれがバイオレットフィズを飲み終えてしばらくすると、バーの店長は透真に声をかけた。


「ノア、駅前の店に明日の注文出してきて。」


 透真は駅前の酒屋なんて聞いたことがなく、少し驚いた顔をしたが、それがすぐに店長の気遣いだと分かると、店長に軽く頭を下げた。


「すみれさん。もう出られる?」


 透真は他のお客さんが来る前にすみれを人通りの多い駅前まで送って行きたいと思い、すぐに声をかけた。


 すみれは透真の言葉に、コクリと頷いた。


「じゃあ俺、上着取って来るからちょっと待ってて。」


 透真はすみれにそう言うと、店のバックヤードに入って行き、十秒ほどで出てきた。


「駅まで送るよ。」


「大丈夫だよ。仕事中でしょ?」


 透真が駅まで送ると言ったが、すみれはいつもの癖で遠慮してしまった。


「ダメダメ!まだアイツらこの辺ウロウロしてるかもしれないし。店長のおつかいも頼まれたし。ね?送らせて?」


「じゃあ、お言葉に甘えて。」


 すみれはバックを持って立ち上がり、店長に礼を言った。


「ありがとうございました。の・・・お会計・・・」


 店長はすみれの顔を見て、にっこり笑って


「今日はいいよ。ノアにツケとくから。」


 と明るく笑って言った。


 店長の言葉に甘えてすみれは財布をバックにしまい


「ありがとうございます。ごちそうさまでした。」


 と店長に言い、透真の方を見た。


「じゃあ行こうか。」


 透真もすみれの顔を見て、二人は店を出た。


 さっき店の前ですみれに声をかけた時より、少し薄暗くなった空を見ながら、すみれは透真に話しかけた。


「ノア、って言うの?アナタの名前。」


「ああ。ノア・・・はニックネーム?みたいなもの。色々面倒なこともあるから、店とかではノアで通してるんだ。」


 透真は一呼吸置いて続けた。


「俺の名前は、透真。黒崎透真。」


 透真は自分で『ノア』と呼ばれるように振舞ってきて、どこでもその名前で通してきた。

だけど、なぜかすみれにだけは『透真』と呼ばれたいと思い、本当の名前を教えた。


「透真・・・さん・・・」


「さん、はいらない。透真。」


「透真・・・」


「はい。」


 二人は目を見合わせて小さく笑い、そのまま何も話さず歩いた。


 透真はすみれに名前を呼ばれると少しくすぐったいような、優しい気持ちになった。


 二人は、お互いに何も話さなくてもいい、ちょうどいい距離感が心地よく感じていた。


「ありがとう。ここで大丈夫。」


 駅に着いた所ではすみれは透真に言った。


「どういたしまして。気をつけて帰ってね。じゃあ、、また。」


 次に会えるかどうかもわからないのに、透真は自然に『また』と言っていた。 


 すみれは小さく手を振り、駅の方へと歩いて行った。


 透真はすみれの姿が見えなくなるまで見送り、店までの道のりを、軽やかな足取りで鼻歌を歌いながら歩いた。 

 

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