姉上。まさか、お子ができたのですか

 マクファーレン邸を後にしたエドマンドは、霧になって飛行しながら、様々な思いを巡らせていた。

 

 と言っても思考は千々に乱れてまとまらず、合間合間に激情に駆られた。

 ただちに引き返し、ラスティに詰め寄りたい。ハリーの領域の場所はどこなのか。ハリーとどんな話をしたのか。どんなことが起こったのか。ヴィオレットはハリーを前にして、どんな態度を取ったのか。

 すべてを聞き出したかった。


 だがそれを知ってしまったら、決して平静ではいられない。今は落ち着いて、体調を万全にするべきだ。

 近日中に、石榴館せきりゅうかんの面々がハリーの領域を襲撃するのだから。


 昨日、ハリーはフィリックスに尾行された。とっくに居場所は割れている。奴の命運も、もう尽きる。

 すべては、彼の口から語らせよう。

 たとえどんな残酷な事実が明るみに出ようとも、耐えなければいけない。取り乱すことなく、粛々と復讐を終わらせる。

 すべてはヴィオレットのために。


 オルドリッジ家の領域を目前にして、エドマンドは強い違和感を覚えた。虫の知らせ、と言ってもいい。領域内に不穏な空気が漂っている。


 またか、とエドマンドは嘆息した。


 ――母上が、怒ってらっしゃる。


 そんなに珍しいことではない。父がどこそこの人間の女にうつつを抜かしたと言っては怒り、誕生日プレゼントのドレスの色が好みと違うと言っては怒っていた。

 百年以上も連れ添った夫婦が、そんなことで情けない、と思う。だが対応を誤ると、怒りはあらゆる方面へ波及する。

 母の怒りはオルドリッジ家全体の危機だ。従者たちは隅っこで震えて、災いが去るのを待っていることだろう。


 さらに、ここ何年かは、エドマンドの兄姉けいしらも怒りの対象となっていた。成長して力を付けた兄姉らは、平然と母へ反抗する。

 多くの場合、『嵐のあとには静けさが来る』のことわざ通りになるので、過度に怯える必要はない。


 はてさて、今日の怒りの原因はなんだろう。

 だが今すぐ知る必要はない。鎮まったあとに、母の従者を捕まえて聞き出せばよい。


 とばっちりを回避するために、エドマンドは正面玄関を避けて裏庭へ降り立った。季節の花々が風に揺れている。


 ──歌が聞こえる。

 エドマンドは耳を澄ませた。女性の柔らかい声で紡がれる、優しいリズム。これは……子守唄だ。


 頭を巡らせ、唄の出どころを探った。一体誰が、暢気のんきに子守唄なんて口ずさんでいるのか。屋敷は母の怒りに包まれて、とても居心地が悪いと言うのに。


 唄声の主は、庭の奥に据えられているベンチに座る女だった。


 三番目の姉、ウィルヘルミナだ──皆からは愛称のミナで呼ばれている。

 父親譲りのダークブロンドに、すっと通った鼻筋の麗人。瞳の色だけは母譲りの金色だ。

 ここしばらく姿を見ていなかったが、エドマンドだって一年くらい帰らなかったことはある。


 ミナは、囁くように歌いながら、腹をさすっていた。

 まさか、とエドマンドは目を見張る。ゆったりとしたドレスの腹部は、明らかに膨らんでいた。臨月ほどいちじるしい膨らみではないが、決して肥満のたぐいではない。


「……姉上、お久しぶりです」


 エドマンドは姉の元へ向かいながら、努めて平静に声を掛けた。


「あらぁ、エドマンド。久しいわねぇ」


 ミナはぴたりと唄をやめ、口元を綻ばせた。甘ったるい喋り方は相変わらずだ。


「失礼ですが、姉上。まさか、お子ができたのですか」


 直截的ちょくせつてきに尋ねると、ミナの笑みが濃くなる。


「ええ、そうよぉ」


 エドマンドはミナの前にひざまずく。


「それはおめでとうございます。男のぼくでは大した力になれませんが、せめてその子のために贈り物をさせてください」

「あらあら、殊勝だこと。だから私は、お前が好きよぉ」


 ミナは子どもにするように、エドマンドの頭をぽんぽんと叩いた。


「母上や他のきょうだいたちのように、開口一番『父親は誰だ』なんてわめき散らさないのね」


 その台詞を聞いて、エドマンドはようやく気付いた。母の怒りの対象はミナなのだと。

 おそらくミナは、父親の名前を黙秘しているのだ。結束の固いオルドリッジ家では、許されることではない。

 オルドリッジ家がカルミラの民随一の門閥家もんばつかとなったのは、姻戚関係によるものも大きいからだ。一つでも例外を作れば、瓦解する恐れがある。


 だがエドマンド自身、父母のすねをかじりながらも、そういう縛りを疎ましく感じていた。カルミラの民とは元来、自由奔放であるべきなのだ。

 いい年をした女が、どこの誰と子を作ろうが良いではないか。


「気にならないと言えば嘘になります。ですが、それを明かすかどうかは姉上のお心次第。無理に聞き出すのは、いささか不躾だと思います」


 正直に答えると、ミナは口元に手をやってころころと笑う。


「エド、お前は本当によく出来た弟だわぁ」

「恐れ入ります」


 エドマンドは姉の腹部に視線をやった。このぽっこりと膨れた部分に新しい生命が宿っているのだと思うと、こみ上げてくるものがある。


「どうぞ、ご自身のことだけおいといください。月満ち、健やかな緑児みどりごが生まれますよう、陰ながらお祈り申し上げます」


 精一杯の真心を込めて言祝ことほいだあと、自室へ戻ろうと立ち上がった。早急に服を着替え、泥のように眠りたい。


 『ではまた』と別れを告げようとすると、ミナが静かに尋ねてきた。


「それで、お前はどうなのぉ?」

「とおっしゃいますと?」

「お前はまだ、子を作らないの? ヴィオレットとは良い仲だったでしょお?」


 予想だにしなかったことを言われ、エドマンドは激しく動揺した。視線を泳がせながら、ようやく言葉を絞り出す。


「ヴィーとは、ただの友人で……」

「なぁんだ。お前も意気地いくじがないわね。私、二人の子どもを見る日をずぅっと楽しみにしていたのに」


 ぐさりと胸に鋭いものが刺さった。ミナは心底つまらなさそうにくちびるを尖らせている。


「始祖の血筋に、オルドリッジ家の血が混じる日が来るんだって、うきうきしていたのに」

「あ、姉上」


 もうやめてください、と哀訴しようとしたが、姉の残酷な発言は止まらない。


「ハリーに振られて意気消沈する女の心に、どうして付け込まなかったの。お馬鹿さん」


 エドマンドはただうなだれた。もう心が限界で、笑顔の仮面をかぶって受け流す余裕さえなかった。そういえばハリーにも同じことを言われたな、とくちびるを噛む。


「あらあら、ごめんなさい。言い過ぎたわねぇ、許してちょうだい。母上たちによってたかって詰責きっせきされて、私も平静でなかったみたい」


 ミナは立ち上がると、エドマンドを愛おしそうに抱き締めた。


「ついこの間まで私の腰くらいまでしかなかったのに、いつの間にこんなに大きくなったのぉ」

「いつの話をしてらっしゃるのですか」

「子どもの成長ってあっという間なのね。寂しいわぁ」


 慈愛に満ちたミナの言葉に、エドマンドの心はゆっくりと安らいでいく。一番下の弟に、まだ見ぬ我が子を重ね合わせているらしい。実際、ミナとは母子ほど年が離れている。

 先ほどの『失言』も、聞かなかったことにしようと思った。妊娠中の女性は精神が不安定になるというし……。


「ねぇエドマンド」


 ミナが甘く囁く。


「可愛い弟にだけ、特別に父親の名を教えてあ・げ・る」


 えっ、とエドマンドは目を見開いた。


「お前もよく知っている人よぉ」


 などと言われ、エドマンドは顔見知りの男性の顔を順繰りに思い浮かべた。だが確信を持つに至らない。一体全体、どこの誰なのだろう。


「それはねぇ──」


 告げられた名はあまりに想定外で、エドマンドはぽかんと口を開けた。

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