憎悪と羨望、そして来客
ラスティの反応は、きっとハリーにとってはたいそう痛快なものだったのだろう。くつくつと
「それともまだ抱いてさえいないか。年に一回程度の
――雌犬のようだと? そんなヴィオレットの姿は、知らない。
ラスティは愕然とハリーの言葉を受け止めた。
カルミラの民の女性には、『春』と呼ばれる生殖可能期間が存在するのだとエドマンドから聞いた。その期間にのみ、生殖行為をするのだと。
ヴィオレットに裸体をさらされても、同衾のときも、ラスティがいかがわしい欲望を一切抱くことがないのは、女性側の『春』に触発されない限り、男性側に性衝動が起こることがないからだと。
カルミラの民の生々しい事情と、艶美なヴィオレットの姿がラスティの脳裏に浮かぶ。
血を吸っているとき、ヴィオレットがどんな表情をしているか見ることはできない。しかしハリーは『特等席』で、喘ぐ女の顔を眺め、愉しんでいた……。
「安心しろ、いずれそのときが来る。私が仕込んだ『芸』を楽しめ」
悪魔の如きハリーの声が、ラスティの耳に浸透していく。
カッと胸のあたりが熱くなり、視界が赤く染まった。あふれた激情は理性を抑圧し、肉体を支配する。
気付いたときには、ハリーを地面に転がしていた。
『超越者』としての力を発揮したわけではない。胸倉を掴まれた状態から、ハリーの肘を制して足を引っ掛けただけ。
胸倉を掴むという行為は、弱者への
ハリーはきっと、そこまで思い至らなかったのだろう。そもそも、ケンカなどロクにしたことがないに違いない。ラスティがちょいと足を払っただけで、やすやすと真っ逆さまになったのだから。
唖然とした表情のままひっくり返ったハリーは、顔を歪めて苦鳴を漏らす。おそらく、背中の傷に響いたのだろう。
ラスティは衝動のまま足を振り上げそうになったが、辛うじて踏み止まった。
肩のあたりを押さえて悶えるハリーは隙だらけで、先ほどの暴言の借りを何倍にもして返してやることは容易だった。
しかし、煮えたぎった激情はすでに冷えていた。卑俗極まりない悪言を吐き、ヴィオレットを冒涜し、ラスティの心を
かつてヴィオレットを掌中に収めた男は、なんてことのない、ただの軟弱な男でしかなかった。取っ組み合いのケンカなんてしたことのない、見た目通りのお坊ちゃんなのだろう。
だが矮小な優越感だ。ラスティは
「……すまなかった」
その謝罪は、病み上がりの男を投げ倒したことに対するものではない。
ハリーに、
ヴィオレットを貶めているときのハリーの顔は、まるで傷付いた子どものようだった。
言葉と声音は極めて悪辣だったが、表情は苦悶に満ちていた。
そうでなければ、ラスティはハリーを全力で殴り倒していただろう。鼻面に肘をぶつけて、拳を振り下ろしていただろう。
ラスティが『踏み台』などと言って挑発しなければ、ハリーは心の中の宝石箱を汚さずに済んだはずだ。申し訳なくて仕方ない。
だが同時に、彼の胸の内を理解できたような気がする。
「あんたは、憎まれようとしているように見える。誰からも」
エドマンドとシェリルと相対していたときもそうだった。いかにも悪役といったふうな言動を取って、彼らを怒らせていた。
つい今しがたも、ラスティが怒り狂うような言葉をあえて選んでいたような気がする。己の心から血を流しながら。
「ラスティ……貴様は本当に
ハリーは忌々しげに顔を歪めながら、よろよろと身体を起こした。
「一方的に押し掛けてきたかと思えば、好き放題に言い散らかして。挙句、この仕打ちか」
憤然と抗議しながらも、おぼつかない足取りで数歩後退し、ラスティから距離を取る。投げ飛ばしたことで、すっかり警戒されてしまったようだ。
「本当に……すまない」
再度謝罪すると、ハリーは短く笑い飛ばした。そして、やや落ち着いた声で語り出す。
「憎まれようとしているように見える、か。当然だ。怒りと憎しみを胸に抱いて生きている私には、同様の感情を向けられるのが相応しいだろう」
色違いの瞳に鋭利な感情が宿り、ラスティを真っ直ぐ貫いた。
「我々も憎み合い、殺し合うべきだ」
「どうして……」
なぜ、そのように断言されねばならぬのか。理不尽だ、とラスティは表情を曇らせる。理解し合えないとしても、殺し合わねばならない道理はないはずだ。
「どうして、だと。お前の大切な主人を踏みにじった男を、捨て置けるのか? それに、何度も言うように、私はお前が憎い。なにも知らず、安穏と私の後釜に収まっているお前がな」
青年は、明らかな嫉妬を見せていた。剥き出しになった切実な感情に感化され、ラスティもまた本音を漏らす。
「俺だって……あんたが羨ましいよ」
「なに……?」
「ヴィーの心を強く縛るあんたが。人間として、従者として愛されていたあんたが」
これ以上ないほど残酷な仕打ちを受けたというのに、ヴィオレットはハリーを憎むことなく、ただ悲嘆に暮れるだけ。そして寝言で名を漏らす。ヴィオレットの心には、未だ強い情が残っているのだ。
「俺は、言ってもらえなかった。『心変わりしない』と」
「なにを言っている?」
ハリーは思い切り眉をひそめる。そんな奇異な表情をしていても、強烈な悲憤や憎悪を浮かべていても、彼の美貌は崩れることがない。ヴィオレットの好みは、きっとこんな男なのだろうとラスティは薄っすら思った。
――俺はこの男の代わりなのかもしれない。
そう思った瞬間、胸がずきりと痛んだ。悲しみはラスティの心を弱らせ、真情を吐露させた。
「俺はヴィーの従者じゃないんだ。カルミラの民と従者のように、強い絆で結ばれているわけじゃない」
ただ拾われただけ。気まぐれで血を与えたら蘇ってしまったから、義務感で連れ帰っただけ。
去って行った男の代わりに、心を慰め、身体を温める役割をもらっただけ。
「俺は彼女に血を吸われて従者になったんじゃない。彼女の血を飲んで、死の淵から蘇っただけの『他人』だからな」
「それは……どういう……」
ラスティの言葉を受けたハリーは一瞬ぽかんとしたが、やがて意味を理解したようで、愕然と目を見開く。
衝動的に己の素性を明かしてしまったことを後悔しながら、ラスティはハリーの次声を待った。
しかしそのとき、白い霧の塊が飛来する。ラスティの脇をかすめたあと、ハリーの傍らで実体化した。
──フレデリカだ。
男二人の
顔には強い当惑が浮かんでいる。なにか困ったことが起きて、指示を仰ぎに来たようだった。
「話を邪魔してごめんなさい。でも……あの、その」
「どうしたフレデリカ」
ハリーはラスティを警戒しつつ、少女の言葉に耳を傾ける。
「お客様が来てるの……」
「客だと? いったい、どんな。またホレス氏の結界を突破されたのか?」
ハリーの
フレデリカは相変わらず困ったような顔つきで、ラスティをちらりと窺った。なにか言いたげな眼差しだったが、言葉を発することなく、ただ屋敷の方へと視線を移す。
「あたしの知らない人なの。……でもね、でも──とってもきれいなひと」
戸惑いの中に、恍惚の色が混ざる。
「……この世のものとは思えないくらい、きれいなひと」
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