花から花へ 2

 欲望を満たしたヴィオレットは、気持ちをすこぶる昂らせたまま、星の瞬く夜空を飛行した。


 高揚したこの気分を誰かと分かち合いたい。素晴らしい『甘露』を口にできたことを、誰かにひけらかしたい。

 その思いを伝えるべき相手は、ただ一人。付き合いの長い幼馴染。


 ヴィオレットはエドマンドの気配を探った。

 大抵の場合、彼は人間に混ざって享楽に耽っている。

 籠絡した貴族の息子のふりをしてどこぞの社交場に潜り込み、時に獲物を物色し、そうでないときはもすがら遊び惚ける。


 近くにいないならばそれでいい。ここ数年、エドマンドはヴィオレットの屋敷に住み着いているので、朝になれば帰ってくる。


 しかし、今宵はわりと手近にいるようだった。

 青年の気配を辿って急旋回し、霧と化した肉体を風に乗せる。


 中央の噴水を境に、左右対称シンメトリーに造園された広大な庭の片隅。屋敷に灯された明りが辛うじて届く辺りに、エドマンドはいた。

 こんな暗い場所ですることと言えば、『逢引き』に違いない。『食事』とも言う。


 案の定、エドマンドの傍らには着飾った女がいた。

 ヴィオレットは幾何学きかがく模様に刈り込まれた植え込みの一角に身を隠し、青年の手練手管を観察する。


 女のおくれ毛をいじりながら、エドマンドはなにか囁いている。

 時折、『そんな』とか『まぁ』とか気恥ずかしそうな声を上げつつも、女はエドマンドの顔から目が離せないようだった。


 じっと見つめて堕とすのは、カルミラの民の常套手段。瞳を通じて不可視の力を送り込み、誘惑する。もう一押しで女は青年へ身をゆだねるだろう。


 けれどヴィオレットには、他者の艶事を覗き見る趣味はなかった。ましてや幼馴染のものなんて。


「やあエドマンド、良い夜だね。……そちらのご婦人は?」


 白々しく呼び掛けながら接近すると、女は飛び上がるほどに驚いて、一目散に逃げていった。

 既婚者か、もしくは婚約者がいるのだろう。他所よその男にうつつを抜かしていていい身分ではないのだ。


「ひどいじゃないか、いいところだったのに」


 エドマンドは大きく嘆息したあと、くちびるを尖らせて遺憾の意を表した。彼の不機嫌を解くために、ヴィオレットは甘い声を上げてしなだれかかる。


「ごめんなさい、許して」

「あ、ああ……。うん、別にいいんだ。別段、空腹だったわけでもないし」


 この幼馴染は、本当にぎょしやすい。だからとっても愛おしい。込み上げてきた衝動のまま、ヴィオレットはエドマンドのくちびるに吸い付いた。


 不意をつかれたエドマンドは激しく動揺したようだが、もう子どもではないし、キスだって慣れたものだろう。すぐに気を持ち直し、彼らしい優しい口づけを返してくれた。


 くちびるが離れると、エドマンドは口角を軽く舐めてから言った。


「血の味が残っているね。少し古い・・が、いい味だ」

「でしょう。獲物の若さや見目ばかりにこだわっている者には、決して味わえぬ甘露よ」

「耳が痛いよ」


 青年は苦笑し、ゆっくりと歩き出した。ヴィオレットを夜の庭園散策に誘っているらしい。

 悪くないな、とヴィオレットは幼馴染の横に並んだ。


「来週の約束、覚えてくれているかい?」


 出し抜けに問われ、ヴィオレットはわずかに眉根を寄せた。乗り気でなかったから、すっかり忘れていた。


「お前のお友達を紹介してくれるって話? ハリー……なんとかと言ったっけ」

「『ハリー・スタインベック』といってね。貿易商の三男坊さんなんぼうなんだ。小粋で、口が立って、物知りで、なんでも卒なくこなす奴だよ」

「貿易商の三男……。家督を継げる可能性が低いから、貴族にすり寄って身を立てようとしているのね」


 そういった生き様は別段恥じることではないと思うが、気が進まないヴィオレットはつい冷ややかな物言いをしてしまった。

 エドマンドは気分を害したふうでもなく、穏やかな笑みを崩さない。


「間違っちゃいない。でも、気高い男だよ」

「気高い……? どうせ未亡人に囲われて、男妾のような暮らしをしているのでしょう?」


 エドマンドからの答えはなかった。きっとヴィオレットの指摘通りなのだろう。

 なぜそんな男を紹介したがるのか、さっぱり理解できない。


「彼といると、誰もぼくには注目してくれない。彼が劇場や舞踏会に現れると、とたんにご婦人方が視線を向け、嬌声を上げる」


 と、エドマンドは金色の瞳にひどく誇らしげな色を浮かべた。

 自分よりも他者を慈しむ彼らしい物言いだが、人間相手にいささか心酔しすぎではないだろうか。

 『エドったら、男色の気でもあったのかしら』と不安がよぎったくらいだ。


「きっと君も気に入るよ」


 気に入るわけがない、とヴィオレットは思った。

 男は嫌いではないが、食指が動くのは女ばかりだった。吸血だけではなく、臥所ふしどを共にしたいと思うのさえ、女が対象。


 甘えて玩弄がんろうし、散財させるだけなら男が好ましいが、お日様の下では紳士ぶっているあいつらは、実のところ自信家で傲慢で、潜在的に女を見下している。

 従者にしてしまえば従順になるだろうが、そもそも血を吸うのさえいとわしいのだから、土台どだい無理な話だ。


 ふん、とヴィオレットは鼻先でわらい、戯れに尋ねる。


「万が一、私がその男を気に入ったらどうするの?」


 するとエドマンドは少しだけ目を見開いて、視線を彷徨さまよわせた。


「どうって……君の好きにすればいいさ」

「好きに? さんざん誘惑した挙げ句、路傍の石ころのように扱っても良いということ?」

「……ぼくの顔を立ててお手柔らかに頼むよ」


 弱々しく頼み込んでくるエドマンドに意地悪な笑みを向けると、ひどく当惑したようだった。端正な顔を歪めて、うーんとなにか考え込んでいる。

 そんなに悩むくらいなら中止でいいのに、と思う。


「じゃあ、無しね」

「いや、もう席を予約してあるから。……せっかくだから、男装はやめて着飾って来たらどうだい?」

「気が向いたらな」


 格好に関して指図されるいわれはない。ヴィオレットは抗議の念を込めて、男のように返事をする。


「さてエドマンド、お前はこれからどうするの?」


 ハリーなんとかの話はお終い、とヴィオレットは話題を変えた。するとエドマンドは目をぱちくりさせたあと、煌々と明りの灯る屋敷を見た。


「どうする……って、麗しいご婦人も逃がしてしまったし、ここの家主に挨拶をして帰るよ」


 その返答は予想通りで、ヴィオレットはくすりと笑う。


「先ほどのご婦人を追いかける気はないのね。じゃあ、私が手を出しても構わないでしょう」

「ええ? うん……別にいいけれど。本当に君はよく食べるね」

「食いたいと思ったときが食いどきよ」


 ぴしゃりと言ってやると、エドマンドは呆れたように苦笑し、肩をすくめた。


「さすが、『健啖けんたんの具現』」

「そっちのあだ名は嫌いよ!」


 鋭く吐き捨ててから、ヴィオレットは霧になり、先ほど逃げていった女の匂いを追った。

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