敗北
どうしてグレナデンはハリーを見逃してしまったのか、その理由はすぐに判明した。
「ああもう、グレナデンときたら、さっさと飛び出して行ってしまって。若人たちの危機に我慢ができなかったんだねぇ」
タイミングを見計らったように颯爽とやって来たのは、
「当然だ。見殺しになどできるか」
血の剣を自分の肉体に還しながら、グレナデンはフィリックスへ答える。フィリックスは肩をすくめたあと、人差し指を空へと向けた。
「じゃ、グレナデン。私はハリー・スタインベックを追うからね」
「
「了解。では
片手をひらひらさせたあと、フィリックスは霧となってハリーの去った方向へ飛んでいった。
ハリーは疲弊しきっている。きっとすぐに追い付かれてしまうだろう。
「フィリックス殿は、あのままハリーを討ち取る気ですか?」
エドマンドは、大股で歩み寄ってくるグレナデンに尋ねた。
この手で殺すと誓った男が、赤の他人に討ち果たされるのはたいそう心苦しい。だがハリーに手も足も出なかったエドマンドには、異を唱える権利がない。
「いや、フィリックスは戦いが不得手だ。
グレナデンの答えに、エドマンドはほっと胸をなで下ろした。しかし安堵の気持ちも束の間、すぐにグレナデンたちの思惑に気付く。
「住処を突き止めておいて、後日、大勢で攻め入るのですね……」
「そうだ」
――ならばぼくも参加したい……。
喉元まで出かかったその言葉を、エドマンドは飲み込むしかなかった。両足を傷付けられた今の自分は、どうあってもただの『お荷物』だ。せいぜい、遠くから見学するくらいのことしかできない。
悔しさに歯噛みするエドマンドの傍らで、グレナデンは膝を折った。どうやらエドマンドの傷跡を
なんだろう、とエドマンドが訝しんでいると、グレナデンの手が患部に触れた。ぴりっとした痛みが走ったが、それも一瞬のこと。すぐに心地よい温かさが広がり、痛みが溶けるように消えていった。
苦痛を緩和させ、肉体の治癒力を高める術だ。習得の非常に困難な技で、オルドリッジ家でも使える者は母と長兄だけ。数百年生きている父でさえ覚えていない。
高度な血液操作に、治癒術。一つの派閥を束ねる男の才覚を目の当たりにして、エドマンドは自分の無力さを改めて痛感した。
「……ありがとうございます」
まだじくじくと痛むが、なんとか身を起こすことはできた。顔をしかめながら礼を言い、次いで懇願する。
「……どうか、シェリルへもお願いします」
「任せておけ」
断られたらどうしようかと思ったが、グレナデンは快諾してくれた。
すでにエドマンドの
「あんたはもう大丈夫なのか?」
「ああ、ぼくは問題ない」
答えながらラスティの左腕の傷を窺うと、すっかり塞がっているように見えた。もともと浅手だったのか、それとも『超越者』ゆえに治癒能力が高いのか。なんとなく、後者なような気がした。
「……君が『迷子のラスティ』か」
シェリルへ治癒術を施しながら、グレナデンが口を開いた。
ラスティはグレナデンにじろりと眺められてたじろいだようだが、『ああ』と頷いたあと、背筋を伸ばして『はい』と言い直した。誰彼構わず馴れ馴れしく接するラスティも、グレナデンには畏敬の念を抱いたらしい。
「君は、オルドリッジ夫人の従者ではなく、ヴィオレット・L・マクファーレンの従者だったのだな」
ラスティはその問いに対しては沈黙を守り、エドマンドへ『どうしよう?』と言いたげな視線を送ってくる。仕方なく、エドマンドが代わりに口を開いた。
「その通りです。その少女とこの男は、ヴィーの従者です。今日は二人ともぼくが預かっていました」
「エドマンド、君も母君のように、マクファーレンと親しいのだな」
グレナデンの声音には、非難するような響きは含まっていなかったが、エドマンドはわずかに
「幼少の頃より、懇意にしています……」
嘘をついていた罪悪感に、声が震える。
「隠し立てしていて申し訳ございません。先日、ヴィーが
「そうか」
意外にもグレナデンは平静だった。顔色一つ変えず、シェリルに触れ続けている。
「あなた方は、ぼくたちを尾行していたのですね」
恐る恐る尋ねると、グレナデンは『ああ』と静かに
「私はなんの疑いも抱かず、迷い人を捜索するつもりだった。だが、フィリックスがな……」
フィリックスか、とエドマンドは飄々とした片眼鏡の男の面を思い浮かべ、ほんの少し眉根を寄せた。
こちらを疑う素振りもなく、ラスティの捜索を快諾してくれたフィリックス。だが内心ではエドマンドのことを怪しんでおり、迷子探しをする気など毛頭なかったのだ。
まったく、『食えない男』とは彼のような人物を指すのだろう。
「さすが、あの御仁は鋭い。ぼくがなにか嘘をついていると、勘付いたのですね」
毒づきたい気持ちを押し殺し、あえて称賛するように言う。するとグレナデンはエドマンドを一瞥し、またシェリルへ視線を戻した。淡々とした様子だが、却って恐ろしい。
「その通りだ。だから、君たちのあとを
「そう、ですか……」
また声が震えた。ずっと年上の同胞たちを騙しおおせると思っていた自分の浅はかさが嫌になる。
「本当に、申し訳ございません……」
「今はこれ以上なにも聞くまい。この健気な娘を、早急に主人の元へ届けてやろう」
グレナデンの青い瞳の中に、エドマンドを責める色はない。ただ一心にシェリルのことを案じてくれているようだった。
「……ありがとうございます」
エドマンドは心からの礼をグレナデンに述べ、深々と頭を下げた。
年上の男の気遣いが深く身に沁み、こぼれそうになった涙を乱暴に拭う。
「礼も謝罪も不要だ。我々は、最初から状況を静観していた。もっと早く割って入れば、誰も傷付くことはなかっただろう。我らにも責められるべき理由がある」
――最初から……。
それを聞いて、恨みがましく思わなかったといえば嘘になる。
もっと早い段階で参戦してくれていたら、シェリルは重傷を負わずに済んだ。ハリーを討ち果たすこともできていたかもしれない。
だが、すべての原因は、エドマンドのついた嘘にある。
シェリルとラスティ、ヴィオレットの関係を隠したまま、グレナデンたちを利用しようとした。
迷子探しをしているはずのエドマンドと、ヴィオレットの元従者ハリーがどうして戦闘を始めたのか、グレナデンたちにはわからなかったのだ。
だから、ある程度の事情を把握するまで、『静観する』という手段を取ったのだろう。
結果、エドマンドは怨敵をみすみす取り逃がした。
挙げ句、シェリルにひどい怪我を負わせてしまった。ヴィオレットに『十全を尽くせ』と護衛を任されたのに。
無力な己があまりに不甲斐なく、グレナデンが肩を叩いてくれなければ、その場から動くことができなかっただろう。
それから、グレナデンを伴いヴィオレットの屋敷へ帰還する。
一連の騒動はハリーの逃亡で終結したが、敗北したのはぼくたちの方だ、とエドマンドは思った。
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