錆の名に相応しい男と、すみれの名が似合わぬ女

「なんだ、やはり悲しいか? 恐ろしいか?」


 涙の理由を誤解した女の声が低くなったので、そっと頭を横に振った。


「……いや……。ほんとうに、うれしいんだ」


 わずかに声がかすれる。女とメイドが息を呑む微小な音がした。

 瞼を下ろして感慨に浸っていると、ふん、と女が鼻を鳴らした。そしてまた尊大な調子で話を始める。


「血を飲ませたあとは、なかなかに愉快な光景が見れたわ。みるみるうちに頭の火傷が癒えていって、身体に刺さっていた異物が押し出されて傷が塞がった。顔に血の気が戻って、穏やかな寝顔になった。深く傷付いた肉体を回復させるための睡眠なのでしょうけど、蹴っても起きないからすごく腹が立ったわ。風呂に沈めてやろうかと思った」

「……実行されなくてよかったよ」


 女へ視線を向けながらしみじみとぼやくと、メイドが口を挟んだ。


「二人がかりでお風呂に入れて差し上げたんですよ。たいへん骨が折れました」


 と、恩着せがましい物言いをしてから頬を赤らめた。若い女性の反応としては正当だろう。こちらも大いに気恥ずかしい。


「ええと、それはすまなかった。いろいろ汚かっただろう」

「ええまったく!」「ほんとうに!」


 恐縮すると、女二人は盛大に肯定した。

 もしかしたら、この二人には二度と頭が上がらないかもしれない。男は静かにそう思った。


「そういえば、まだ名前を聞いていなかったわね」


 女がさして興味もなさそうに尋ねてくるが、それは素っ気ない振りをしているだけではないかと感じられた。しばしば冷たく横柄な態度を見せるが、その端々から思い遣りや、はたまた好奇心が窺える。


 意外とわかりやすい女だ、と微笑ましく思いながらも、男は名乗ろうと口を開く。


「名前……名前……えーと」


 一瞬なにかが浮かんだが、スッと消えていった。Tから始まる名前だったような気がするが、思い出せない。

 だがそのことに対して、わずかたりとも悲観の念は湧いてこなかった。


 女が『ふぅん』と一人で頷く。


「記憶障害があるのか。よりにもよって名前を忘れるとは、哀れなこと」

「そんなに愛着のあるものではなかったからな……。ただ、他の奴らと区別をつける記号みたいなもんだった……ような気がする」


 自虐的に言うと、女はさも面白そうに片眉を跳ね上げた。そして、白魚のような手を掲げて男を指さす。


「では、お前は『ラスティ』だ。赤錆色あかさびいろの毛にぴったりだ」


 男がなにか言う前にメイドが反応した。


「まぁそんな、犬猫に名付けるようになされて……」

「拾ったのだから似たようなものでしょう」


 命名の儀を終えた女は満足そうに笑い、メイドはひどく申し訳なさそうに眉尻を下げている。そんな女たちを見ていたら、自然と笑みが浮かんできた。


「あははっ、じゃあ犬や猫みたいに、従順にすり寄って可愛がってもらえるようにするよ」

「ふふ、殊勝な心掛けね」


 相変わらず尊大な女の態度に、メイドが小さく吹き出す。

 三者三様の笑声が寝室に満ち、室内の空気がほんのりと温まったような気がした。


「じゃあ、うつくしいひと。あんたの名前を聞いても良いか?」


 女を真っ直ぐ見つめると、黒い瞳が揺らぐ。左右で色彩の違う、不思議な目。左目の方が格段に美しく、宝石のように煌めいている。

 女は気を取り直すように咳払いし、毅然とした声でそれを教えてくれた。


「私はヴィオレット。ヴィオレット・ラウラ・マクファーレン。――カルミラの民の始祖の血と名を継ぐ者よ」

「ふーん?」


 始祖だのなんだの、もったいぶるように言われても、ラスティにはピンと来なかった。それにとても長い名前だ、恐らく明日には忘れている。

 ただ、『すみれヴィオレット』という響きだけを胸に刻んだ。


 だが、小さく可憐なその花の名は、彼女にはちょっと――いや、かなり似合わない気がする。

 もちろん、それを口に出す度胸はない。


「しかし……カルミラの民――か。……最初は、死神かと思ったよ」


 素直な第一印象を述べると、ヴィオレットはくちびるを尖らせた。


「ふん、まぁあながち間違っていないわ。さっきも言った通り、お前を殺してやろうと思ったんだから」

「失敗したあとはきちんと連れ帰って、身体を洗って着替えさせて、介抱してくれる優しい死神だな」


 揶揄すると、今度は呆れたように嘆息される。


「お前は、口がよく回るわね」

「その方が、周りが楽しんでくれるからな」


 酒に酔って、くだらない話をして場を盛り上げる。そのときだけは、本当に楽しかった。けれど、ちょっぴり虚しかった。

 果たして、ヴィオレットとの会話が終わったあとも虚無を感じるだろうか。

 いいや、きっと大丈夫だと、根拠もなく思った。


「しかし、なんで戦場あんなところにいたんだ?」


 尋ねると、女は険しい顔で押し黙る。

 傍らのメイドは訝しげにあるじを窺った。どうやら、メイドには理由を知られたくないらしい。


「……散歩よ。ただの散歩」

「はぁ、散歩」

「人間の愚劣な営みを見学したかったの。ただそれだけ」


 そう言って遠い目をするヴィオレット。黒瞳の中に悲哀が浮かび、それ以上の追及をはばからせた。


「……では」


 ヴィオレットが音もなく立ち上がる。


「ゆっくり休め」


 と、わずかな笑みを浮かべたあと、足早に退室していった。

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