(4)
スケッチを描き終えるまで、一時間くらいかかった。夢を視て描き出せた男の顔は全部で四種類。夢の中で覚えようとする意識が猛烈に強いんだろう。男の顔は、特徴の細かいところまできっちり視認できる精度を保っていた。逆に、顔以外のディテールはごく一部を除いて全部闇に飲み込まれていた。
そういう思い込みの強さは、特定の夢を記憶しようとした場合逆に作用することがある。現実では記憶と現実は厳密に区別されるけど、夢ではそうはいかないの。意識に紐付けされた現実が夢に流れ込むと、いろんなものが混じり合ってしまうんだ。夢は現実から作られるけれど、必ずしも現実の正確な写しにはならない。森下さんのケースはまさにそうだった。
「終わりましたー」
描き上がったスケッチを森下さんに渡したら、それを凝視した森下さんが嫌悪感をむき出しにした。
「これ……は」
「出て来たのは一人じゃなかったです」
たぶん、森下さんは犯人の顔なんかほとんど覚えていない。もし覚えていたとしても、それは断片になってしまってる。だから、四人の顔は似通ってはいるけど全部別人。森下さんが思い出したい顔は、わたしの描き出したスケッチの中には入っていないと思う。
描き出された人物が誰かわからないけど、それはきっと、森下さんが現在捜査中の容疑者、もしくはすでに逮捕された凶悪犯の顔に支配されているはず。現実で気になっている人物、強いマイナス印象を抱いている人物。それが夢の中のかすかな記憶と混じり合ってしまったんだ。ちょうど、観光地なんかに置かれている顔出しボードみたいな感じ。状況は毎回同じでも、顔だけが微妙に変化していってるんだろう。
わたしの描いたスケッチを見比べていた森下さんの顔が、みるみるうちに怒りで真っ赤になった。手がぶるぶる震えている。
「こ……んな、いい加減なっ! ありえんだろ!」
「いいえ。森下さんは、短い夢を何度も見られてます。そのたびに顔が違うんです。嘘じゃない。本当にそうなんです」
「く……」
森下さんは、わたしの説明なんか何も聞いてなかった。浜崎さんの警告通り。これまで押さえ込んでいた真っ黒な感情を、いきなり目の前で爆発させた。
「俺をバカにしやがってえっ!」
スケッチをぐしゃぐしゃっと丸めて床に叩きつけた森下さんは、蹴るようにして立ち上がるなり、わたしの胸ぐらを掴んで持ち上げた。
「ぶっ殺してやるっ!」
浜崎さんの警告を聞いてなかったら。わたしがこうなることを覚悟してなかったら。わたしは間違いなく大きな悲鳴をあげていた。その時点で、手を出した森下さんは破滅。わたしもどうなっていたかわからない。でも、怒りが恐怖を上回った。かっとなったわたしは即座に怒鳴り返した。
「バカにしただあ!? ふざけんなああっ!」
目の前にある森下さんの鼻目掛けて、力いっぱい額を打ち付けた。がつーん!
「ぐわっ!」
わたしの反撃を一切予想していなかったんだろう。頭突きをまともに食らった森下さんは、真後ろにひっくり返った。
「謝れえええっ!!」
絶叫しながら、床に仰向けに倒れた森下さんの顔を力一杯踏みつける。こんな鼻、潰れてしまえ!
「こ、この野郎っ!」
顔面を鼻血だらけにした森下さんが、拳を固めて起き上がる。でも、わたしは恐怖を感じなかった。恐怖を上回るくらい、全身全霊で怒り狂ってたんだ。
「殴ればいいじゃない! あんたの家族を殺した犯人みたいに! あんたの中身は最低の殺人犯と同じじゃないか! 人の話を何も聞かないで、自分に都合のいいものばっか欲しがって! 汚い! 汚い! きたなああああああいっ!」
泣きながら絶叫した。わたしは悲しくて泣いたんじゃない。悔しくて、腹立たしくて、どうしても我慢できなかったんだ。好意を敵意で返される悲しさ、悔しさを初めて味わって、激しく傷ついたんだ。
がちゃっ。
突然ドアが開いて、心臓が止まるかと思った。家族に気付かれたらただじゃ済まない。警察を呼ばれちゃう。でも。
「なあ、ワタル」
のそっと入ってきたのは、浜崎さんだった。さっきわたしがされたみたいに森下さんの胸ぐらを掴んで引き寄せ、どすの利いた声を漏らした。
「最低だな。おまえ、刑事やめろ」
「……」
「待ってください!」
そんな幕引きにされたら困る。森下さんがじゃない。わたしが困るっ! 冗談じゃないっ!
「なんだ?」
森下さんを小屋から引きずり出そうとしていた浜崎さんが、うんざり顔で振り向いた。わたしは、さっきくしゃくしゃに丸められたスケッチを、しわを伸ばして森下さんに突きつけた。
「わたしはちゃんとオーダーに応えました。それをいい加減だと言われたことは絶対に許せません! この場で謝ってください! 謝罪がない限り、帰しませんよ! 絶対に許せないっ!」
「あんたも、気ぃ強いなあ……」
襲われかけたってのに怒るのはそこかよ、みたいな。なんとも情けない顔で、浜崎さんが弱々しく笑った。
「謝りなさいよっ! じゃないとまた鼻蹴飛ばすよ!」
「おいおい」
やっと正気に戻ったのか、浜崎さんの手前があったのか、それはわからない。でも、顔面血だらけでうつむいていた森下さんは、わたしの前にごつい体を投げ出し、額を床に擦りつけた。
「申し訳……ありません」
泣きながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます