第8話「……まあ最終的に家から逃げ出して、どこともなく高架下でホームレス生活してた訳だけどさ」

「確かに中学の頃から……母さんが入院してから、私の生活は地獄だったよ。誰にも言えなくて、誰に言うかもわからなくて、言うべきかどうかもわからなくて。ただ、耐えるだけだった。毎日毎日殴られて、蹴られて、燃やされて、嬲られて、溺れて、塗れて。私はただ我慢するだけだった。終わるのを待つだけだった」


「…………」


「まあ最終的に家から逃げ出して、どこともなく高架下でホームレス生活してた訳だけどさ」


「……だったら」

 

 玲奈は声を、そして、ゆっくり手を出す。

 泣きそうな顔で、それでもまだ顔は笑ってて。

 懸命に笑顔を作っていて。

 私はそれを受け入れ、そして彼女を受け入れた。

 

 玲奈はまっすぐ私を見つめてる。

 

「だったら……」


「ああ」


「そこで私に……、私じゃなくても千里だって、他のみんなにだって……」


「うん。頼ればよかったんだよな。わかってる。今ならより一層、わかってる。お前が頼れば答えてくれる奴だってことも、そう言う風な優しい世界があることも。今はよくわかってる」


「なら——」


「……でもさ。それと同じぐらい、当時の私が、そんな優しい世界を見つけることが難しかったってわかるんだよ」

 

 そう。

 当時の私はどうかしていた。

 どうしようもならない状況を、どうにかしようとしていた。

 子供という弱者の立場で。

 何もできない雑魚の身分で。

 一人。

 一人で。


「私は人を——助けようとしていたんだ」


 目を見て。

 私は言った。


「ははっ。笑えるよな。何が人を助けるだよ。人様を助けようなんて考えられる立場じゃねえ。まず自分を助けろって話だ」

 

 ほんと笑える。

 どんな喜劇だ。

 アホらしいにも程がある。


「自分も救えないような奴が、逃げ出した奴が、一体誰を助けられるっていうんだ。どうやって助けるってんだよ。馬鹿でもわかる。どんなだけ頭動いてなかったんだ、あの頃の私」


 そんな。

 そんな自嘲な言葉と笑みを吐いた私に、少し距離をとった玲奈は、そのまましばらく黙ったのち、一瞬考えるような顔になって、私に聞く。


「その……」


「ん?」


「人ってのは……」


「ああそうか、すまん。今のじゃ説明が足りなかったか」


 と、私はまだ笑ったままに、言った。


「母さんだよ。私の母さん」

 

「母さん……」


「今のじゃないぜ? 実の母親だ。私の生みの親で、あのクソ野郎の妻である、そんな私の愛すべき母親だ」


「それは、わかってる」


「そか」


「私がわからないのは……『助ける』の部分だ。実の母さんをお前は……助けたかったのか?」


「ああ」 

 

 頷き、私は言葉を続けた。


「私の母さんは……なんというか、昔から心が弱くてな。『うつ病』って言うらしいんだけど、知ってるか?」


「いや……」


「まあそうだろうな。まだあんま患者が多い訳じゃないから当然かもだけど、まあ要するに精神病だ」


「精神病?」


「唐突に、何か自分をせめて、自分はいないほうがいいんじゃないかなんて思い込むようになっていって、最終的にいけば自殺してしまうかもしれない——みたいな、そんな病気。私も医者から聞いたまんまの知識だから正しいかはわからないけど」

 まあ、あんな親父と私が生まれる前から一緒に暮らしてたんだ。

 私が異常なだけで、普通、あんな毎日、暴言も暴力も受けてたら、そりゃ精神病にぐらいなるだろうさ。

 それも小さい私を庇って。

 一人ずっと、

 朝から晩まで働き通して。

 働き潰されて。

 

 

 で。

 と、私は続ける。


「で、原因はなんであれ、母さんは、入院した。定期的にじゃないぜ? ずっと、だ。面会はたった、週に一回。それ以外はずっと隔離病棟に入院することになった」

 

「入院って……」


「まあほとんど病院ってよりは監獄みたいなもんだったけどな。ほとんど隔離されたガラスケースの中、ベットとトイレしかないような、独房みたいな部屋で監視されながら送る生活。さらに、頭のおかしい奴がうじゃうじゃいて。常人だってあそこに放り込まれたら、いやでも頭がおかしくなっちまう。だから私は一刻も早く母さんの病気を出して、そこから出す必要があった」

 

 面会に行くたび。

 そのたび痩せていった母さんを思い出す。

 私に向けるその笑顔がだんだんと痩けていって。

 やつれていって。

 悲しげんに曇っていくのが、今だって鮮明に思い出せる。


「母さんは私のことをずっと心配してたよ。あの人も、ほとんど強制的に入院させられたようなものだったから。家のことなんてほとんどできないまま、娘の心配なんて言えないまま。ただ病院に放り込まれて。事情を説明しようにも、普通に精神異常者の戯言にしか聞こえない。だから、母さんはずっとそのことだけを私に問いかけて、心配してくれた」

 

 大好きな母さん。

 あの人のためなら私は死んだって構わない。

 そんなことを私は毎日思ってた。

 会うたび、細くなってく姿を見るたび、母さんからもらった言葉は、今だってノートに全てある。

 大事な

 大事な

 私の——宝物。


 どんな苦行にだって、苦しみだって、なんだって。

 母さんがいれば——私は耐えていける。


「だから……カナは——」


「ああ、そうだ」


 だから私は——言えなかった。

 私が言えば。

 漏らせば。

 どこかに弱みを見せれば。

 

 必ず母さんに連絡が行く。

 母さんは親だ。

 私の母さんで、

 そして、親権を持つ親だ。

 事件が起こって私が施設に入れられるようなことになれば、

 それは間違いなく母さんへの確認が入る。

 どんな状況であっても。

 どんな事態であっても。


『あなたの子供がひどい暴力を日常的に受けていたので、だから施設に保護しますけど、それでいいですよね?』


 なんて。

 そんな書類が唐突に送られて来たとき、果たして彼女はいつも通りにいられるだろうか。



「だから、私は黙った。黙って逃げて、耐えて、振る舞った。生きて、母さんが退院するのを待ってた。病気が治るのをただ、待ってた。玲奈や千里に言えば、もしかしたら助けてくれるかもしれない——でも、そんなリスクを私は取れなかった。そんなチャレンジ取るぐらいなら、耐えたほうが合理的だって思った。正しいって思った」

 だって——


「だって、そうすれば、『私だけ我慢して』それで状況が良くなるのであれば、それはとても素晴らしいことだろ?」


「……カナ」


「でも、ま。結局、高架下で暮らすにも限界で、その辺に生えてる草木で食いつなぐのも無理で、選択だって困って、いろいろ無理が出てさ。そのまま夜ふらついてたら——まあ、あいつに見つかって。そしてそのまま連行されて、で、結局そのままあいつんちに厄介になることになったって、わけ」


 あいつ——

 今頃クラスの中心でチヤホヤされている、あいつ。

 うざったくて、キモくて、だらしがない、あいつ。

 こんなことは絶対に言いたくないし、きっと言わないし、一生涯黙っているけれど。

 それでもあの時、あいつが私に声をかけてくれなえれば、今は私はこうして制服を着ていないだろう。

 そこには少し感謝している。

 彼の両親の一兆分の一程度には——感謝している。

 

 そんな風に憎むべき敵の顔を宙に思い浮かべつつ、私は玲奈に向き直る。


「これで全部。これで終わり。これが——私の苗字が変わった訳。ごめん。今日まで黙ってて」


 私は素直に謝った。

 心配は、きっととてもかけた。

 だんだんと痩せていってボロボロになっていくクラスメイトが、ある日突然苗字を変えて、風貌まで変わって血色まで良くなって、挙句こうして隣町の私立高校を受験すると言おい出すのだから、それを黙って見守ってくれた彼女には感謝しかないだろう。

 それどころか、二人ともがこうしてまだ同級生であり続けてくれると言う事実一つ見ても、私の頭は下がる。


「……ごめん」


 だから。

 だから私はその分も込めて手を膝についた。


 



「——一つだけ」


 玲奈は目を伏せる。


「一つだけ、どうしても聞きたいことがあるんだ。もちろん答えたくなかったら答えなくてもいいし、答える必要はないし、むしろ答えが返ってこないほうが私にとってはきっと都合がいいから。それを含めて、含んだ上で、一つだけ。奏——質問いい?」

 

 目を伏せ尋ねる。 

その表情は親権だった。

 

 私は黙って首肯した。


「その……お母さん、花奏のお母さん、ってさ」


「……うん」


「今も……その」


「…………」


「まだ…………元気なの?」


「いや」


 即座。 

 私は首を振る。

 否定する。

 そして答える。


「一年前に死んだよ。自殺だった」

 喉をバターナイフでかき切って。

 そして死んでいった。

 私が最後、彼女を見た時、

 それはまだ、アクリル板の向こうで。

 その温かな手には——最後まで触れることはなかった。

 

 そう。

 八月二日。

 今日は——母さんの命日なんだ。

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