第5話「あんたは……私の親でもなんでもない」

 重い扉に手をかける。

 慎重に、丁寧に扉を開ける。

 鍵は空いていた。

 それは、知っていた。

 この時間にはもう――来たことは知っていた。



「――ただいま」


 小さく声をかける。

 返ってくるわけもない。

 返ってくるわけがない。

 そこに、誰かが住んでいるわけもないのだから。

 いるはずもないのだから。

 

 しかし、私は声をかける。かけた。

 再三。再四。

 声をかけ続けた。

 いつでも出れる準備をして。

 走れる態勢をとって。 

 実際四回ほど声を出した。

 

 改めて中に人がいないことを確認し終え、結論を一つに固めた私は、ようやく家の中に入る。

 後ろ手で鍵を閉める。

 

 すぐに部屋の横にあるスイッチで電気をつけた。

 

 夜の街頭以外に光を持たないそのへやは、一面光で照らさる。

 

 破れた襖。

 解れた畳。

 汚れた天井。

 壊れた机の上に、ワタが飛び出た座布団が乱雑にある。


 およそ人が住んでいるとは考えにくい——その居間。


 鼻につく、酒と泥の匂い。


 きっと、それは足元に転がっている酒瓶と足跡に起因するものだろう。 

 それらが一層——この部屋の暴力性を高めている。


 私はいそいそと靴を脱いでそこから自分の部屋——ということにしている押し入れの中に足早で向かう。

 焦る気持ちを押し殺して。

 震える手を止めて。

 この部屋でも記憶の一切合切を頭の中から封じて。

 ……大丈夫。

 奴は今、ここにはいない。

 鍵もしめた。

 だから誰もここには入れない。

 私一人。

 誰も、いない。

 そのはずだ。

 

 自分に必死に言い聞かせて呼吸を整える。

 大丈夫。

 大丈夫だ、私。

 

 隣の部屋。

 どでかいタンスと、大きな押し入れ以外何もない部屋。

 先ほどの今とは違って、汚さはなかったが、それでも何もない殺風景なその様子は体というより心が凍てつくようだった。

 私は頑丈で固い、木と鉄でできている自作の押し入れの前に立つ。

 前まで来て、まず鍵が壊れていないことに安心した。

 荒らされた形跡も……特にない。

 私は四重にしている鍵のロック番号をそれぞれに打ち込み、南京錠を開け、そこを開いた。

 冷たい布団と、並べられたみかん箱。

 それらを乱暴に奥へと押し込む。

 焦る気持ちと、恐怖に駆られる形容し難い感情が差し迫る。

 私の部屋で、不可侵の城だった場所に、私は頭を突っ込む。

 捨ててからもう三ヶ月近くはなるけれど。

 それでも愛着のある城だったことは覚えている。 

 それでも今は用無しのガラクタだ。

 布団とみかん箱の隣。

 そこにある小さな本棚から、私は目印をつけていたブックカバーをかけた二冊ほどの書籍を鞄につめる。

 

 ——それじゃあ、

 ——早く。

 ——早くここから出ないと。

  

 なんて。

 きっと焦っていたのだろう。

 それか、高鳴る心臓の音が邪魔したか。

 しばらくの生活でアンテナが麻痺したか。

 後ろから、唐突に声はかかった。

 

「よお」


「——っ!」

 

 迫るその気配。圧。雰囲気。

 私は気づかなかった。

 いや。

 焦っていなくても、別に状況は変わらなかっただろう。

 ドアの鍵など、意味はない。

 あれは外から内に入れないようにするためのもので。

 敵が、内にいたのなら。

 それはほとんど意味がない。

 それに、相手はおそらくわざと私に気づかれないために、ここにいたのなら。

 私に見つからないよう、彼は隠れていたのなら。

 ひっそりと。

 タイミングを測っていたのなら。

 より一層、私が気付くのは難しかったろう。

 そんなことを振り向いた私は思った。

 開けられた、そのタンスを見て。

 開け放たれたタンスと、その前に立つ坊主頭の男を見て。

 私は思った。


「ん? どうした、そんなに慌てて」


「…………」


「久しぶりの親子の語らいじゃないか。えっと……三ヶ月ぐらいだっけか」


「…………」


 睨みつつ、私は後ろ手に鞄を持つ。

 座ってしまっているこの体制から見上げる彼はとても大きい。

 それでも百八十のタッパがある彼は、私からしてみればもう十分に大きいのだが。

 ゆっくり、慎重に、手で自分の体を動かす。その距離を取る。

 それでも狭い部屋の中、彼との距離は早々開くことはない。

 彼の黒光りした靴が、ひどく視線にチラついた。


「おいおい、そんなに距離を取ろうとすんなって。別にとって食おうってわけじゃねえんだから」


 そう言って、一つ。

 ポケットから取り出したタバコを口に加えた。

 その煙が揺らめいて天井にぶつかる。


「お前、ちゃんと飯は食ってんだろうな? なんか前より痩せてるぞ? というか……今どこで何してんだ」


「…………」


「お前が他人に助けを乞うような人間じゃねえことぐらいは知ってるし、かと言って他人じゃないにしても俺たちの親戚連中なんて、まともな付き合い一つしてねえし。ほんと……今どこで生きてんだ?」


「…………」


「学校はちゃんと行ってんだろうな? やだぞ、呼び出しくらうの。……ったく、義務教育がなんだっての。別に放っておけってな。あぁ。言っとくけど、この前みたいに内に誰か来ることになったら殺すからな」


「…………」


 じっと黙ったままに彼を見上げる私は未だ黙ったままに彼を見上げる。


「だんまり、ね。まあ俺は別にいいけどよ。お前がどこでのたれ死のうと関係ねえ。俺に迷惑かけねえってんなら、そこで勝手に生きて、勝手に死ね、クソガキ」


「……なんの用だ」


「あ?」

 

 絞り出した声。

 震えた声。

 それを前に出して私は彼を睨む。


「そ、そんなところに隠れてまでして。私を待ってて。な、なんの用だって、聞いてんだよ……!」


「…………」

 

 と。

 言ってから、すぐ。

 数秒後。


 世界は一瞬にして白くなった。


 早々に暗転。


 世界がひっくり返って瞳に映った。

 遅れてやってきた痛みと、そして鉄の味のする口内から、

 私はようやく自分が蹴り飛ばされたことを知った。


「かはっ……!」

 

「……お前、今なんて言った?」

 

 そのまま。

 私の顔を蹴り飛ばした靴が目の前まで近づく。

 本能的に手で顔を隠した。

 痛みが当たる。伝わる。

 何か、鈍く、軋んだ音が腕から脳内へと響いた。

 

「今、父親である俺に向かって」


 蹴る。


「敬語どころか」


 蹴る。


「タメ口の暴言を——言ったのか?」


 蹴る。


「じゃあ……お仕置きだな」

 

 蹴る。蹴る。蹴る。

 

 顔だけじゃない。

 腹に背中や足。

 脛と股間にまでその足は及んできて。

 時には緩急をつけて。

 時には狙いを定めて。

 時にはテイクバックをつけて。

 時には踏みつけるようにして。

 

 最終的には笑いながら。

 

 丸くなった私を、蹴り飛ばした。 

 

 久しぶりなその感触は、とても重く、きつい。

 こんなものに慣れ切っていた当時がいかに神経を壊していたのか。

 それを痛感する痛みだった。

 

 攻撃はいつの間にか止む。

 それでも私は蹲ったまま。

 顔と腹を隠したまま。

 丸くなったまま。

 

 私は頭部に伝わった種類の異なる痛みでうめいた。


「お前、ほんっと軽いな。飯食ってんのか?」 


 ゆっくり。

 髪ごと体を引き揚げられる。

 自然。 

 頭部に手を当て抵抗を示すも、その拳はほとんど岩のように硬くほつれがない。

  ちらりと盗み見た表情に笑みが浮かんでいるのが見えた。


「おら」

 

「——うっ!」

 

 暴れる私をほとんどなんでもないかのように数発、腹を殴る。

 

 一瞬。

 息が止まって何かがこみ上げてくるも、しかし、それもまた殴られた腹の打撃で止まった。

 

 私は、半ば頭部から伝わる髪の痛みを諦め、抵抗を止める。

 同時、彼の攻撃も止んだ。


「ははっ、なんだお前、すげえ顔してんのな」


「…………」


「こんだけのことされて涙一つ流さず睨みやがる。ホント……誰に似たんだか」


「…………お前ではねえよ」


「は?」


「あんたみたいな……弱いものしか殴れないような、根性なし——」

 そんな人間に似なくて本当によかったよ。

 

 そこまで言い切る間も無く、彼の拳は私の腹部に刺さった。


「本当……口が悪いガキだな、お前は」


「——うぐっ!」

 

 また一つ。

 腹に一撃が入る。

 揺れることで神からも痛覚の訴えが響いた。

 鈍く強い衝撃で、私はついに嘔吐した。


「あーあ。汚え。お前これ掃除しろよ。一応、まだ俺、ここで暮らしてんだからな」

 

「…………」


「まだ……睨むか、お前すげえよ本当」


「…………」


「まじでクソ生意気なところは変わってねえ」


 そう言って彼はまた一つ笑った。

 卑屈に皮肉に。

 マイナスな感情に塗れた。

 そんな笑み。

 私が世界で一番嫌いな笑みだった。


「——あんたは……」


「あ?」


「あんたは……私の親でもなんでもない」


「はっ、何を言い出すかと思ったら。紛れもなくお前は、母さんと俺がセックスして、そして俺の精子でできた人間だよ」


「……うるせえ、しね」 

 

 私は目を広げて、

 口に残る鉄の食感を吐き捨てながら、

 流れる血と、薄れゆく視界の中、

 喉から声を出す。


「私は——母さんの子供だ。私の親は、母さん以外いない。母さんだけが私の親なんだ! お前なんか、お前みたいな外道……。家族だなんて……人生で一回も思ったこともない……!」


「…………」

  

 無表情になった彼は何も言わずに、私を放り投げる。 

 派手に転げ落ち、私は腕から地面い落ちた。

 嫌な音が第二関節の方から聞こえたが、その痛みはもう感じなかった。

 

 見下ろす彼が口を開く。

 

「俺も——」


「…………」


「俺も、てめえを娘なんて思ったことはねえよ」


 

「今日待ち伏せしてお前を待ってたのだって、このためだしな」

 

 と。

 開け放たれた押し入れの中。

 彼は中をゴソゴソと探る。

 乱暴に。乱雑に。

 私の城を荒らす。

 あれほど苦楽を共にしたみかん箱や電気スタンドも無残な姿になった。 

 

 構わず、私は蹲ったまま、彼との距離を取る。

 ドアの方。

 扉の方へと向かう。

 後ろ手に鞄は離さないままに。

 自分の体をそちらへ引きずってく。

 

「——あった」

 

 そんな声が、中から聞こえた。

 出てくる彼。

 ニヤリ。

 また、いやらしい笑みを浮かべて私を見下ろした。

 

 その手には封筒。

 厚みがあり、それでいて、重そうではない。

 封筒。

 当然、私はそれを知っていた。


「去年ぐらいからこの間まで、お前が歳ごまかしてこそこそとバイトをしてるって……そんな話をどっかで聞いてな」


 彼は唐突に言葉を出して笑みを浮かべる。


「一体何をしようとしてたのかはしらねぇけどよ。でも、嘘はダメだったな。嘘はいつかバレるもんだ。それも……こんな有名人になっちまえばもう、なおさら。偽名なんて、早々にバレるもんだ。……で。そこで怒られて、追い出されて」

 つい昨日、俺のところまで報告が来たってわけよ。


 ——本当、天才様は大変だなぁ。

 

「まあ、お前がいつもこの曜日の、この時間に家に帰ってくることは知ってたからな。こうして張り込むだけの楽な仕事だったからいいけどよ」


「…………」


「ありがとさん。今日まで稼いでくれて」


「…………」

 

 ひらひらと。

 その中身を取り出して見せつけてくる。

 数十枚の一万円札。

 それを乱雑にポケットにしまって封筒だけを私に投げつけた。

 

 怒りはもう……わかなかった。


「じゃ。また稼いだら帰ってきてもいいぜ。その時にはこの三倍ぐらい稼いできてくれ。大丈夫だ、その顔と体なら上客だって食いつくと思うぞ」


「かっ……!」 


 そう言って、また笑った彼は最後、ついでとばかりに私の腹を蹴り飛ばし、そのまま外へと出て行った。

 

 そこに残ったのは、

 自分の嘔吐物に塗れた服に身を纏い

 正気の失った顔で

 涙を流す気力すら失った空な目を浮かべながら

 ただ腹に伝わる鈍い痛みだけが現世との繋がりを持つ

 

 無力な少女——ただ一人だった。 

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