第3話「一人で、今すぐ、走って、帰れ」


 その日の帰り。夕方。

 授業はとっくの昔に終わっており、部活生もちらほらとその帰り自宅を始めているだろう時間帯。

 そんな放課後の――教室の中。

 家に帰るわけにも行かない私は、図書館で借りてきた本を読む。

 今日の一冊は『パンセ』

 『人間は考える葦である』という言葉で有名な本作は単なる護教書というには些か過度に触れられているジャンルが広く膨大だ。

 浅学なことで申し訳ない限りなのだが、私個人として、まずこれを小難しい哲学書だと思って手にとっていた。

 名前からして厄介極まりない代物だ。

 パンセとはなにか。

 あまりに一般名詞ではなさすぎる。

 そんなものをタイトルに持ってくるぐらいには意味がわからない。

 なんなのだこれは。

 そんなことを思いつつ、私はこれを手に取ったのだった。

 そして。

 そして、内実、その中身を見てみれば、意外なことに結構読みやすいものであったことには驚きだった。

 人間とコミュニティの関係性、自我とは、欲望とは、テキストと文字、記号についての考察などなど。 

 自分に身近なものに置き換えることが可能な分、非常に理解がスムーズで容易かった。

 しかし反対、確かに、どんどんと前に進目られるものの、また、自分の心の内側をくすぐられているような感覚にもなって、これが非常に落ち着かない。  

 それでも人間、興味関心というのは須くあるもので、だからなかなかページをめくるのその指が止まってくれなかった。

 と。

 結局最後まで読み切ってしまって、一息ついてしまって、時計を見て、いよいよ重い脚を上げて帰り支度を始めなくてはならないなんて思った――そんなところで、ようやく私は気がついた。


「…………」


 男子が一人。

 扉の前。

 座っていたのに気がついた。


「…………」


「ん?」


 椅子を引いた音か。

 その影が立ち上がったのが見えた。

 私は先駆け主導権を取るため声を出す。



「おい……何の用だ」


「読み終わった?」

 

 声だけをだして、そしてゆっくりと膝を払う動作を挟む。

 ここからだと、その姿は見えない。 

 扉ガラスは濁っているのでここからはその姿が確かにはならないのだ。

 まあそれでも。

 あくまで何となくだけれど。

 彼の落ち着き払った様子から、変な悪気はないことだけはわかった。

 彼はまた、声を出す。


「できたら……」


「あ?」


「その一緒に帰ろうと思って」


「…………」


「だから待ってたんだけど」


「…………」


「ダメだった?」


「今すぐ帰れ」


 即座。

 私は言った。

 一瞬怯んだように空いた間は、しかしすぐに埋まる。


「えっと……」


「…………」


「一緒に?」


「んなわけねぇだろ」


 私はまた、乱暴に言い切って言葉を吐く。


「一人で、今すぐ、走って、帰れ」


「走るのは……嫌だなぁ」


「じゃあお前は歩いてもいい。私は走るから」


「いいの? 疲れるよ?」


「別に。そんなのいつものことだし」


「……え、いつも走って帰ってるの?」


「……んなわけないだろ」

 

 首を振る。

 ここから私の家までを毎日走って帰っていたとしたら、今頃私の進学先は陸上強豪校に決定しているだろう。

 走ることにおいては短距離だって長距離だって苦手だ。特に長距離については異常と言っていい出来である。

 

 という説明はあまりに蛇足だったのでしなかった。

 そして、すぐ。

 私は言葉を出す。

 

「疲れるのが――いつものことってこと」 

 

 息を一つ。

 吐く。

 

「私、目立つの嫌いなんだよ。大嫌いなんだよ。生きてる間中できうる限り部屋に引きこもって本を読んでいたい――なんてそんなことを本気で思うぐらいには、外に出るのも嫌いな人間なんだ。人と関わることすら嫌いなんだ。……それなのに、最近はほとんど毎日、誰かに見られて、知られて、声をかけられて、バイトまで……。まるで展示されてるみたいに、鑑賞されてるみたいに、注目されて」


 言葉が漏れ出る。


「挙げ句の果てに、あんたみたいな男子にまで付き纏われて」 

 ――本当いい加減にしろ。全員死ね。

 

 ほとんど皮肉の意味しか込めていなかったその言葉を吐いた瞬間、私は驚いた。

 私は私に驚いた。

 

 確かに私はとても性格の悪い人間ではあるのだけれど、それだって、こうして初対面の人間に対し、ここまで傍若無人な言葉を吐く人間ではないと、少なくとも自分の中では思っていたからだ。


「…………」


 ……まあ、きっと。

 こうしてまだ、相手の顔を拝んでいないからだろう。

 そんな考えで強引にまとめて、私は黙った。

 

 彼はそのまま、扉の向こうに立ったまま、言う。


「もしかして……」


「…………」


「迷惑、だったな?」


「迷惑」


 間も開けず、間髪入れず、


「超迷惑」


 言い切る。


「早く消えろ」


 そして。

 

「というか」

 

 気づき、続ける。


「――振った相手なんかと、その日のうちに、二人で帰れるわけがないだろうが」


 さっき気づいた。

 そうかなるほど。

 その背格好と雰囲気。

 特徴的なスポーツ刈りと、その笑い顔。

 何となく見覚えがあったから、だから私はあんな言葉を吐いてしまったのか。

 確かに人間、自分に好意を向けている人間に対しては形はどうであれ心は開いてしまうもの。

 その結果があの暴言だというなら納得だ。

 この態度だって、説明がつく。

 ……なんて。

 そんな言い訳であれば通りはいいだろうか。


「……そっか」

 それはごめんね。

 

 なんて、柔らかに答えた彼は、ゆっくりと立ち去った。

 ――のかと思えば反対、逆の扉から唐突に姿を現した。

 爽やかで。長身で。

 とても好印象を与えそうな笑顔だった。


「あのさ」


「…………」


「……いや、そんなに睨まないでよ」


「…………」

 

 確かに私の目つきが悪いことなど私が一番良く知っていることだけれど、それでも誰かに、それも男子に、こうして面と向かって指摘されれば、まあそれなりに傷つく。

 そんな自分を誤魔化すように、私は表情を変えず、彼を見た。


「……何」


「あ、うん」

 

 彼は続ける。


「やっぱ……一緒に帰らない?」


「帰らない」


「俺、二時間ぐらい待ってたんだけど」


「知るか」


「パンセ、俺も好きなんだ」


「なら、私は嫌いだ」


「どうしてもダメ?」


「どうしてもダメ」


「絶対?」


「しつこい」


 私はほとんど切れてかかって、彼から視線を切った。


「もしついてきたら、警察行くぞ」

 

 鞄を持って彼とは反対の扉に向かう。


 何なんだこいつ。

 随分と面倒なやつに捕まってしまった。

 振り方が不味かったのだろうか。

 いやでも、今まで私に告白してくる連中は、だいたいああやってこっぴどく振ってしまえばもうそれで終わりだった。

 この世の絶望みたいな顔をしたままのやつもいたし、涙を流し他やつもいたし、中には膝を折って地面に突っ伏すやつまでいた。

 まあ。

 とにかく大事なことに、彼らは、それ以降私の前に二度と現れることはなかったのだ。

 だから、今回もきっとそうなるだろうと踏んでの対応だったのだが。

 ……まあ、何事にも例外歯ある――ってことか。


 そんな納得をしつつ、おそらく憂鬱なことになるだろう帰路を考えつつ、どう顔を隠そうか思案しつつ。

 私は、前の扉を開けた。


「ねえ」

 

 懲りることなく彼は言葉をかける。


「じゃあさ」


「だから本当にしつこいって――」


「もし俺と帰ってくれたら――」

 絶対に人に会わないようにしてあげるよ。


 無意識。

 私の足は止まった。

 

 どうしてその発想ができなかったのか。

 と。

 そんな感情に塗れた偉人伝の話といえば、それはもうコロンブスの卵のほかにはないとは思うけれど、しかしそれが実際のところ、創作偉人伝であると言う事実を既知にしている人間というのはこの世界に一体どれほどいるのだろう。

 私はこの話を学校の図書館にかけてあった漫画で知ったのだけれど、しかし、そこには、それが創作上のフィクションで語られた話であることなんて、私の記憶では全く言及されてなく、それどころかまるでそれが紛れもない事実の一つでように、一つの歴史であるように、堂々と卵をテーブルに突き立てた満足げのコロンブスが描かれていたことを記憶していた。

 はてさて。

 ではどうして私が、ここで今更にその偉人伝を思い出すに至ったのかと言えば、それは間違いなく、先に言った『どうしてその発想ができなかったのか』というセリフが心にはっきりと浮かび上がってきたからに他ならない。

 風が腿を撫で。

 機械の音が体から耳へと流れていき。

 春らしい花の匂いが鼻を通って。

 目元に流れる彼の黒々とした髪は激しく風に靡いていた。

 

「なあ!」


「ん?」


「お前の、ヘルメットはっ?」


「あー、うん」

 

 彼は少し考えるように黙って、そして笑った。


「忘れた」

 

 言って彼はまたギアを上げる。

 その急加速に一瞬体を持っていかれそうになるも。しかし前の大きな体に回していた私の手は、彼の手によってしっかりと握られていた。

 だから私は宙に舞うことなく反対、彼の体に巻き付いた。

 風がより激しくなる。


「仕方ないじゃん。誰か乗せるなんて考えてなかったんだから」


「でも、普通に危ないぞ!」


「君にはヘルメットかぶせてるじゃん」


「……そうかもだけど!」

 

 確かに彼の言う通り。

 私の頭にはフルフェイスのヘルメットがかぶせられていた。

 そして。

 そしてこれまた彼の言う通り。

 周囲からある多くの好奇の目は、そのヘルメットのおかげで私を特定できずにいた。

 それでも……まあこうして中学生二人が堂々と二人乗りで二輪車を乗り回していると言うのだから、いつもの帰り道よりも注目度は高いのだけれど。

 

「まあ――それにさ」


 風の中。

 街の中。

 桜の中。

 彼は唐突に告白する。


「この昭和の時代、ヘルメットだって二人乗りだって、危ないって言われてるだけで犯罪ではないし」


「そうだけどっ!」


「仮に犯罪だとしてもさ――それこそ今更だし」


「今更っ?」

 

 私は必死に彼の腰に巻き付きながら、返す。


「今、俺たちって何に乗ってる?」


「何って——バイクじゃないの?」


「正確には単車な」


 彼はにやけてうなずいた。


「で」


「うん」


「単車の免許って」


「うん」


「十六歳からって知ってた?」


「……え?」

 

 彼は高く笑って、また一番。ギアをあげた。


「ははっ。流石、噂の天才様でも女子中学生ってことかな。単車の免許年齢なんて習わねえもん」


「え、あ、え——?」

 私は突然出てきた発言の意味を正しく汲み取れず狼狽を返すも、しかしまた上がったスピードで私の思考は止められた。

 一層彼の腰に巻きつく。

 耳に届くのは彼の笑い声。

 世界がグルグル回るような感覚に、私の口角はなぜか上がった。

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