同定アプリ(後編)

 さて、前回に続き生物同定アプリの件。


 後編は、これがやがて我々環境調査員の立場をおびやかすものとなるか、という点について述べたいと思う。


    ◆


 まず、現在あるのは、同定ツールではなくアプリという件。


 前回挙げた『Biomeバイオーム』は、単に名前を調べるだけでなく、データをコレクションするゲームであるとともに、サーバーに上げられたデータは別途環境保全などの資料となるほか、同定の精度を上げるのにも使われるだろう。


 ゆえに、環境調査の仕事ではこれは使えない。調査で得たデータは発注元に所有権があるため。


 まあ、名前だけ調べて登録しない、というのも一応可能ではあるが、わざわざそこまでする必要もあるまい。


 現状、現地調査で標本を確保し、室内に持ち帰って同定する、というやり方で十分仕事は成り立っている。


 それでは、今後さらにシステムが発達し、ゲームではなく調査業務用のツールとして独立したものが作られたら?

 まだ調査に慣れていない新人さんに渡して現地調査の補助に、というのが一瞬思い浮かんだが、現地調査員に必要な能力は同定ではなく採集である。

 それは昆虫に関する知識……生息環境や出現時期、行動など……であり、採集のための技術であり、さらには昆虫以外の動植物を含む環境の知識であり、また山歩きのような野外活動の技能も必要となる。

 一方、先述のように現地で種名がわかる必要は必ずしもない。

 一部の重要種は採集された位置を記録する必要があるが、どうしても分からなければ後で推測する方法もある。


 というわけで、現地調査ではこのような同定アプリは必要なさそうである。


    ◆


 室内に持ち帰ってからの同定作業のほうはどうだろうか。

 これも一応、現状ちゃんと機能している。


 しかし、日本に数万種いるといわれる昆虫類のうち、分布域の限られる種や珍種もいるが結局は数千種を調べる……厳密には候補として考える……必要がある。

 これは個人ではなかなか困難であり、実際には専門分野の異なる数人で分担することが多い。

 また、自分の専門分野であっても、似た種類が多いとか、他種との区別点が微妙とか、同種内でも変異があるとかそういった理由で同定に時間のかかる種も少なくない。


 そんな場面において、図鑑や論文などの補助ツールとして使えるものがあればいいな、とは思う。


    ◆


 幸い、と言うほどでもないが、どうやら筆者が現役のうちは少なくともこのようなアプリに仕事をおびやかされるということはなさそうではある。


 とはいえ、今後どんな風に技術が進歩し、この業界にどんな影響を及ぼすかは検討も付かない。


 自分がこの仕事を始めたころは、パソコンが普及し始めた時代であった。

 電子メールなどもちろんなく、他社や他事務所にデータを送る際は、ファックスか郵便、宅配便を使っていた。

 データを入れるのは、当時5インチから3.5インチに移り変わっていたフロッピーディスク。フロッピーディスクは今でもワープロや表計算ソフトの保存用アイコンとして残されているが、このマークは何だと聞かれてわからない人の方が多くなったのではないだろうか。

 カメラはフィルムカメラが全盛のころ。現場終了後に、会社の近くにあった写真屋に多数のフィルムを持ち込んでいた。後にデジタルカメラの普及により、以前はお世話になった写真屋の多くが姿を消した。

 携帯電話もなく、その日の現場終了時に報告の電話を公衆電話からコレクトコールで事務所に入れるのが日課だった。コレクトコールとは、電話を受けた方が通話料を負担するサービスであり、事務所から遠く離れた現場からの通話料を調査員が払うのではなく、まとめて会社で支払うためのものだ。


 業界に入ってから二十数年、短いようで、大きな変化がたくさんあった。

 自分がこの業界を去るころには果たして、アセスメント業界はどのように変化しているだろうか。

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