8.海の北斗七星

 陽子が引っ越すことには、それ以降触れなかった。触れられなかったと言っていい。

 いつものように海に入り、いつものように練習し、いつものように笑っていた。


 来年はいないのか――


 それ以上の気持ちがあるのかないのかもはっきりしないまま、俺たちの最終日を迎えた。


  ~*~*~*~


 足をつるといけないからと、しっかり準備運動をした上で、泳いで身体を温めた。

 太陽が少し傾いた頃、海から出るように言われた。


「誰にも言ってない秘密の場所を教えてあげよう」


 もったいぶった上に恩着せがましい台詞を向けられ、ついていく。


「ここ、登るよー」


 示されたのは、いつも泳いでいる海を囲んでいる大岩だった。上の方がせり出した、ゴジラみたいな形の岩。


「もったいぶったくせに、目と鼻の先じゃねえか」

「つべこべ言わずに登る。あっちの岩はダメだよ。ちゃんとこっちだって覚えてね」

「へいへい……」


(海のきれいさを教えてくれるんだよなあ……?)


 疑問に思いながら大岩に手をかける。岩登りなどしたことはないが、傾斜がついている上にでっぱりもあちこちにあって登りやすかった。

 陽子はと言うと、慣れているのかぴょんぴょんと跳ねるように俺の横を通り過ぎていった。


 登り終えると、陽子は岩の先っぽに立って海を眺めていた。ゴジラの鼻先に当たる部分だ。横から見た高さは三メートルくらいだったと思うが、怖くないのだろうか。

 転ばないよう足元に気をつけながら進み、隣に立つ。

 眼下に、太陽光を反射してきらきらと輝く海が広がっていた。


「きれいだな……」


 これのことか、ばあちゃんが言ってたのは。

 確かに、きれいだ。下で見ているよりもずっと。

 しっかり目に焼き付けようと見つめていたら、隣から陽子の声がした。


「はい! じゃあ、ゴーグルつけてー」

「は!?」


 ゴーグルつけたら景色が見にくくなるじゃねえか、と言ったが流された。


「いいからつけてー。つけたら両手でしっかり押さえてー。もうちょっと前に進んでー」


 強引な指示を次々に出され、岩がなくなるぎりぎりまで前に行かされた。

 自分の足と海が同時に視界に入り、絶景を楽しむ余裕は消え失せた。


「ちょっ……落ちるって、これっ!」


 足元を見ながらの叫びに、不自然なほど近くから陽子は返事を返してきた。

「落ちるんだよ」


(えっ!?)


 よいしょー、というかけ声とともに背中を思い切り押され、あっけなく岩から足が離れた。


「ゴーグル押さえて!」


 上からの声になにかを感じる余裕などない。言われるまま手に力を込め、近づいてくる水面を見つめながら歯を食いしばった。


 バッシャーン! と上がった水しぶきをくぐり、海に突入する。白い泡が大量に目の前を通り過ぎていった。

 沈んだのは一瞬。すぐに浮力を感じ、下を見た。地面まではまだ距離があった。


(よかった……)


 いつも泳いでいたすぐそこの海は深いところでも立つと首が出るが、ここは違ったらしい。

 ほっとすると同時に腹が立ってきた。

 先に説明しろよ。――っつーか、いきなり突き落とすな!

 ひとこと文句を言ってやろうと顔を上げた瞬間――


 光が、不思議な優しさをもった光が、俺を包み込んだ。


 それは太陽から落ちてきた光。

 海にあたって広がって、ゆらゆらと形を変えていく。

 地上よりずっと柔らかになって、きらめきながら温かく降り注ぐ。


 “海の北斗七星”――


 陽子の言葉を思い出した。

 夜空の星よりずっと明るい、海に広がる星座。


(これが……)


 ばあちゃんの知って欲しかったもの。見て欲しかった景色。俺の、名前――


 ざぶん、と横で音がした。

 隣に陽子が落ちてきていた。

 ゴーグルで眼は見えないが、にっと笑い、勝ち誇ったようにピースをしてきた。


(くっそ……)


 負けたと思った。

 ひとこと文句を言おうと思っていたのに、言えなくなった。

 頭上でゆらめく光は、いままで見たどんな景色よりもきれいだった。



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