6.青いかき氷

 約束はしていなかったが、やはり陽子は泳いでいた。


「俺の名前決めたの、ばあちゃんだった」


 報告すると、「海が好きな人?」と返ってきた。


「うん」

「やっぱりー」


 勝ち誇った顔で笑う。

 肌についた水滴がきらきらと輝いていた。


「ひとつ訊いていいか?」

「どうぞどうぞ。おねえさんになんでも訊きなさい」


 そいや年は聞いてないなぁ、と思いながらとりあえずそこはスルーした。機嫌がいいのをわざわざ悪くする必要もあるまい。

 そう思って、そのまま本題に入った。


「海って、きれいだと思うか?」


 上機嫌な笑顔が一変した。


「汚いって言うの!?」

「いや、そうじゃない! きれいだとは思う! 思うんだけど……」


 慌ててばあちゃんとのやりとりを説明する。

 ばあちゃんが死んだことには触れなかったが、陽子は「本人に訊けばいいじゃない」とは言わなかった。


「そのおばあさんが、海斗くんの名前を決めたんだよね?」

「そう、です」

「じゃあたぶん、全部繋がってるよ」


 断言して、だけどそれ以上は教えてくれなかった。


「知りたかったら、もっと息を止められるようにして」

「潜るってことか? でも、この辺は珊瑚礁とかあるわけじゃないし、そもそも海の中を見るんならシュノーケルでも使えばいいだろ?」

「酸素ボンベでも背負うならべつだけど、シュノーケルじゃわからないよ」


 深く潜ったところで、地面が近くなるだけじゃないのか?

 疑問に思ったのだが、陽子はさっさと海に向かってしまった。


「お、おい!」


 呼び止めようとしたが、まったく無視してとぷんと海に入り――そのまま浮かんでこなかった。


「え? 陽子?」


 海に駆け寄り覗いたが、陽子の姿が見当たらない。

(どこに……)

 視線を数メートル先まで伸ばしても、いなかった。その先はもう、光が反射してわからない。

 中から見れば……と、海に入ってゴーグルをつけた瞬間。

 遠くで水から顔を上げる音がした。


「え? 陽子?」


 その人物は一瞬だけこちらを見て、すぐにまた姿を消した。

 三十秒後。

 戻ってきた陽子は笑いながら「ただいま」と言った。


「今のができたら、たぶん海のきれいさもわかると思うよ」


 そう言われたが、目の前で起きたことが信じられなくて、その言葉には反応できなかった。


「おまえ……泳げたのか?」

 水上ホバリング選手権一位のくせに。五分でも十分でも、同じ場所でバタバタしてるくせに。


「水の中ならね」

 少しだけ勝ち誇った顔でそう言った。


「水の表面で泳ごうとするとダメ。浮くのに精一杯になっちゃう」

「……普通、人間って浮くもんじゃないのか?」

 俺なんかは潜ろうと思っても浮いてしまうのだが。

「なんでか沈むのよ。普通じゃないんじゃない?」


 ――ああ、なるほど。


「なんか今、すごく失礼な納得の仕方しなかった?」

「……した」


 正直に答えたら、顔に海の水をかけられた。


  ~*~*~*~


 それから十分後。

 陽子は水の表面でも泳げるようになっていた。

 俺が思いつきで「沈むんなら、足だけ沈めたまま泳げばいいんじゃね?」と言ったのだ。

 それまでの泳ぎ方は、どうやら浮くことに必死になるあまり、足が水の上に出てしまって水面を叩くだけになっていたらしい。

 だから、その足を水の中に入れるだけで、しっかり前に進むようになった。


「すごい、すごい! 海斗くん、偉い! 先生になれるよ!」

「……自分も泳げれば、な」


 あちこち泳ぎ回ってはしゃぎまくる陽子に冷めた返事を返す。

 うまくいったのは、陽子が特殊だからだ。一般的な人からは、むしろ教えを請わなくてはなるまい。


 ゴーグルをつけ、水に体を横たえる。

 足を上下に動かし、手で水をかく。

 習ったとおりにやっているつもりなのだが、進みは遅い。そして自分ではわからないが、はたから見るととても不格好らしい。


(でも、気持ちいいな)


 素直にそう思えるのは、間違いなく陽子のおかげだ。

 あいつだけ泳げるようになったのは悔しいが、嬉しそうな顔が見られた。いいことにしよう。

 それに今は、上手く泳げるようにするよりも、息を止める練習が先だ。


 練習方法など知らないから、水に顔をつけてギリギリまで我慢してみる。かなり苦しいが、どれほど効果があるかはわからない。

 それでも少しは長くなるはずだと信じて、何度も何度も繰り返した。


「海斗くーん。休憩しよー!」


 呼び声に振り向くと、陽子がかき氷を持って岩の上に立っていた。いつのまに買いに行ったのだろう。


「頑張ってたね。――はい、これ。泳げるようにしてくれたお礼」

「……ブルーハワイ?」

「うん。きれいでしょ?」

「そうだな……」


 痛い記憶がよみがえる。

 ばあちゃんに、この岩場に連れてきてもらったときのことだ。


「どうかした?」

「ああ、いや」


 隣に座り、ひとくち口に含む。

 変わらない甘さが広がり、気分的に少しだけ苦くなった。


「ばあちゃんにさ、買ってもらったんだ。この岩場に来た帰りに」



 海に行きたくないと言った翌日、ばあちゃんが連れてきてくれた。


 “ほら、ここなら誰にも見られない”


 そう言ってくれたのに、俺のことを想って連れてきてくれたのに、きっとばあちゃんが持っていたあの鞄の中には、俺の水着もゴーグルもタオルも入っていたのに。

 俺は、泳がなかった。


 “もう疲れたよ! 帰る!”


 そう言って、泳がなかった。ここに来るまでの道のりが、少々長かったから。

 暑いからと、疲れたからと、帰りにかき氷をねだった。ブルーハワイのを買ってもらい、一人で食べた。

 ばあちゃんは、隣で俺が食べ終わるのをじっと待っていた。



「……じゃあ、頑張らないとね」

「うん……」


 少し苦みの残るかき氷をありがたくいただき、また海へと向かった。

 陽子は、いつものように賑やかに、笑っていてくれた。



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