5.名前を決めてくれた人

「俺の名前って、誰がつけたの?」


 夕飯のときに母さんに訊いてみた。


「なに? いきなり」

「いや、ちょっと気になって」


 陽子に言われたからなのだが、それを知らせる気はない。知られたが最後、どんな女だと根掘り葉掘り訊かれて、質問はどこかに行ってしまう。


 母さんは「ふーん、そう」と呟いて、いきなりくすくすと笑い出した。

 その視線は、俺ではないべつの方向を向いていた。


「考えたのは、私。決めたのは、おばあちゃんよ」


 思わず振り返り、仏壇のある部屋を見た。母さんの視線も、そちらを向いているようだった。


「私とお父さんはね、空の名前がいいよね、って言ってたの。それで性別がわかってすぐに色々考えて、候補をいくつか見せたのよ。おばあちゃんに」


 一度はおさまったくすくす笑いが再燃する。心もち、笑い声が大きくなっていた。


「そしたらね、見た瞬間、“これがいいねえ”って。他の候補なんか目もくれずに決めちゃって。

 私もそのときは“参考にするよ”とだけ言ったんだけど、会うたびに“海斗は元気か”“海斗は大きくなったか”って言われるもんだから、だんだん私の中でも“海斗”が定着しちゃって」


 そのまま“海斗”になったと。


「でも、空の名前考えてたんだろ? なんで海がつくんだよ?」

「カイっていう字で他に気に入るのがなかったのよ。

 いいじゃない。カイトは凧だし、北斗七星は北極星の場所を教えてくれる大切な星座よ」


 まさか十七年後に子どもがその名前のせいで“ずるい”だの“海か空かどっちかにしろ”だの言われるなんて、夢にも思わなかったろう。

 おそらく今もそんなことになったとは思っていないはずの母さんは、笑いながら「それに」と続けた。


「空と海はついだからね。そんなに変わらないわよ」

「対……?」


 なんだろう。最近、同じような言葉を聞いた気がする。


「対でしょ? 空が荒れてると海も荒れるし、空が晴れてれば海も穏やか。ちょっと時間がずれるときもあるけどね。

 おばあちゃんがよく言ってたわよ。“空を見れば海がどんな顔してるかわかる”って」


 ――思い出した。陽子が言っていたんだ。海と空はおともだち、って。


「……ばあちゃんって、海、好きだったよな」

「そうね。大好きだったわね」


 俺の名前を決めた人。海好きの人。――陽子の言ったとおりだ。

(すげえな、あいつ)

 言っていることの大半は謎だが、当たっていた。

(明日、報告に行かないと)

 ――なんて思っていたら、母さんが突然、話を変えた。


「泳いできて、楽しかった?」

「え?」

「泳いできたんでしょ? で、楽しかったの? いい顔してるけど」

「え、あ……うん」


 海に行くとしか伝えていなかったが、濡れた水着とゴーグルを持って帰ってきていれば、泳いできたことなどバレて当然だ。

 でもそんなに楽しそうな顔してたかなぁ、と頬を触っていたら、母さんが嬉しそうに笑った。


「よかったわね。おばあちゃんも喜んでると思うわよ。あんたが泳がなくなったの、ずっと気にしてたんだから」


 “いつか海斗にも、海のきれいさがわかるといいねえ”


 遊びに来るたびに海に行かないのかと訊かれた。行かないと答えると、寂しそうな顔をした。

 そして、言うのだ。

 いつか海斗にも、海のきれいさがわかるといいねえ、って。


 “海がきれいなことくらい、知ってるよ”


 何度も何度もそう返した。でも、何度も何度もばあちゃんはそう言った。

 あれは、もしかして――


 “泳げばわかるって”


 不意に、陽子の声が聞こえてきた。


 “きれいだよ”

 “海が好きな人がつけたんだな、って”


 陽子は、俺の名前について話していただけのはずだ。

 だが、ばあちゃんの言葉の意味を陽子は知っている。そんな気がした。



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