海が太陽のきらり

沢峰 憬紀

1.記憶の場所で

 ばあちゃんが死んだ。

 夏風邪をこじらせて、あっというまにいなくなった。


「いつか海斗にも、海のきれいさがわかるといいねえ」


 その言葉の意味を、俺はまだ聞いていないのに――


  ~*~*~*~


 くそ暑い中を歩いていた。

 子どもの頃、ばあちゃんに連れてってもらった岩場へと向かっていた。

 弔いのためではない。感傷に浸りたいわけでもない。

 ただ、静かな場所に行きたかった。

 真夏の海水浴場は、今の俺には賑やかすぎたから。

 白い雲も、輝く太陽も、光る水面も、はしゃぐ人々も、腹が立つ存在でしかなかったから。


 記憶の中にかすかに残るその岩場には、人の背丈の倍はありそうな大きな岩がふたつあって、海を小さく切り取っていた。

 砂浜から離れているから人も来なくて、波の音くらいしか聞こえなかった。


 “ほら、ここなら誰にも見られない”


 ずっとこの辺りに住んでいたばあちゃんがそう言ったくらいだ。

 今もきっと、静かなままだろう。


 砂浜が終わるところにあった階段を降り、岩の上を歩く。

 地元民には楽勝だろうが、母の実家がこっちにあるだけの都会っ子にはなかなかの難所だ。

 何度もこけそうになりながら、ゴジラのような形の一際大きな岩に向かっていった。


  ~*~*~*~


 バシャバシャと水を叩く音が聞こえてきた。

 大岩が近づくにつれ、その音が大きくなっていった。


(おいおい、マジかよ)


 誰かいるというのは想定していなかった。引き返そうかと足を止め、数秒間考える。

 水音はたぶん一人分。話し声がうるさいと言うことはないだろう。一人ではしゃげるとも思えないし。

 でも、俺がいたら邪魔かなぁ? あのでっかい岩の陰にこっそりいさせてもらおうか……。

 と、そこまで考えて、ふと思った。


(音……でかすぎない?)


 しかも途切れない。その上、移動していない気がする。

 これは泳いでいるのだろうか?

 もしかして、溺れているのだとしたら……。


 慌てて大岩に向かった。

 祈るような気持ちで岩を回った。


 高く上がる水しぶきと、激しい水音。


「大丈夫ですか!?」


 思わず叫んだが、聞こえるわけがない。

 とにかく近くに、と岩場を進む。

 水しぶきは、岩に囲まれた海のちょうど真ん中くらいで上がっていた。陸地からの距離は、五メートルくらいだろうか。


(この距離なら、なんとか……!)


 シャツと靴を脱ぎ捨て、恐る恐る海に入る。

 腰くらいまで一気につかったが、ありがたいことにそこからはあまり深くならなかった。


 足元に気をつけながら近づき、残り一メートル――というところで、我に返った。


(足……つくよな……?)


 今でも水は胸の下にある。

 急に深くなっているということが考えられなくもないが、それならほんの少し移動すればいいだけの話だ。

 水しぶきを上げている人は、女性のようだが子どもではない。立てば顔くらい出るだろう。


(――っつーか、うつ伏せで溺れてるって……ない、よなぁ……?)


 溺れているなら顔を出そうとするはずだ。

 それなのにこの人は、顔はつけたまま足をばたつかせ手をぐるぐると回している。

 もしかして、これは――


(――クロール!?)


 気づいた瞬間に、バタ足がやみ、その人が立ち上がった。


「……なにか御用ですか?」


 ゴーグルの下から現れた黒い瞳が俺を見つめる。


「あ、いや……」


 無事ならいいんです、と言いかけて口をつぐんだ。溺れていると勘違いされた、なんて知りたくないだろう。

 しかし女性は、俺の姿を一通り見て気づいてしまったらしい。


「――すみません。溺れてたわけじゃないんです」

「あ、いや、こちらこそすみません。勘違いして」


 互いに謝りあって、顔を合わせた瞬間、なんとなく笑ってしまった。

 笑い合ったことで、間にあった壁がべりっとはがれた気がした。 


「よく間違えられるんですよねー、溺れてるって。わたしは泳いでいるだけなんですけど」


 いささかくだけた口調で不満げに言われたが、その不満に俺は入っていなさそうだった。


「ちなみに、さっきのって……」

「クロール」


 やっぱりか。

 慌てて手を出さなくて本当によかった。泳いでいる水着の女性をいきなり抱きしめた、なんて通報されてもおかしくない。

 とりあえず無事でよかった――と陸に上がろうとしたら、呼び止められた。


「泳がないの?」


 ――ああ、そうか。海って泳ぎにくるところだったっけ。でも、俺は。

「泳ぎたかったわけじゃないんだ。泳ぐの、下手だし」

 そう言って断ると、女性の目が期待に輝いた。


「わたしより!?」


 激しい水しぶきを上げるだけでまったく進んでいなかった先ほどの泳ぎが脳内で再生される。

「いや……前には進む」

 女性の目の輝きが失せた。


「なーんだ。じゃあ、泳げばいいじゃん」

「水着ないし」

「いいじゃん、そのままで」


 海水に浸かったままのズボンを指され、それもそうかと思いなおす。


「そんなら、ちょっと泳ごうかな」


 人前で泳ぐのは嫌いだが、この人の前ならいいか。

 再び海に身体を向けると、女性は満足そうに笑ってゴーグルをつけ、また、一見溺れているかのようなクロールを始めた。



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