第8話 美醜

 ドガのアトリエには一枚の絵が布を掛けて置いてあった。


「これだ」


 彼が布を取り去ると、月光の中にかの有名な『踊りの花形(エトワール、又は舞台の踊り子)』が目の前に現れた。

 ドロテとドミニクはゴクリと唾を呑み、その絵に近づいた。


 舞台上で軽やかに舞う踊り子が1番最初に目に飛び込んでくる。

 舞台に設置されている人工光は下半身から上半身に向かって踊り子を照らしており、それが彼女を斬新かつ効果的に引き立てている。

 また、踊り子の瞬間的にみせる肉体の運動性や躍動感、衣装の絶妙な表現も素晴らしいの一言に尽きる。

 観ている者が踊り子を上から見下ろすという非常に大胆な構図が用いられている。これはこの時代に流行っていた日本の浮世絵の奇抜な構図構成に影響を受けたためだろうとドミニクは推測した。

 画面左奥にはパトロンと思しき夜会服の男と、出番を待つ脇役の踊り子の姿も描かれている。舞台上で繰り広げられる華やかな世界とは異なる、厳しいバレエの現実世界を一枚の絵に収めていると言えた。

 まさにドガがカフェで述べていた通りだ。


 あまりの美しさに2人が言葉を失っていると、ドガは不意に笑った。

 その笑い声で2人はようやく現実世界に戻ってきたようだった。


「よし、認めてやろう。この絵の美しさがわかるみたいだからな」

「悔しいですけれど、とても美しいと思いました。エトワールの優雅に踊る様子が最初に目に飛び込んできます。でも、それを観察し終えると奥の黒い塊に目がいく。それがパトロンだと気づくのにそれほど時間は要りません。買春するなんて、と私はパトロンが醜いものだと思っていましたが……これを見ているとわからなくなります」


 ドロテは正直に感想を述べた。

 ドガも何も言わない。


「俺も姉とほとんど同じ意見を持ちました。少し違うとすれば、パトロンの捉え方でしょうか。ドガさんはパトロンとバレリーナの関係に美醜をつけようとしているのではないと思いました。ただあるがままに描くことで美しさが自然に生まれる……そういった芸術のルールといったそのものを表現しようとされているのかな、と」


 ドガはまたしても何も言わなかった。

 だが、突然部屋の端に行って箱をひっくり返したかと思うと、「あった!」と言って手の中のものをドミニクに差し出した。


「これは?」

「見てわからんのか。バレエシューズだよ」

「いえ、それはわかりますが」

「昔、お礼にこれをやると偉く喜んだ奴がおってな」

「それはまた変わり者ですね」


 ドミニクが苦笑いしながら言うと、ドガはずいとさらにそれをドミニクの方へ押し付けた。


「お前がそやつに似ているのでな、もしかしてお前もそういうかと思ったのだが……要らぬならやらん」


 ドガがそれを箱に仕舞い直そうとするので、慌ててドミニクはそれを引き止めた。


「ご好意はありがたく受け取らさせていただきます!!」


 ドミニクは半ば奪うようにしてドガからバレエシューズを受け取ると、月光に翳して繁々しげしげとその様子を眺めていた。

 すると、ドロテが「あっ」と小さく声をあげたので彼が彼女の方を見ると、ドロテはドミニクの内側にある胸ポケットを指差していた。

 ドミニクが彼女の指指す方向をなぞって視線を下げると、祖父の遺品箱に入っていたバレエシューズが淡く発光していた。


(そろそろ時間ということか)


 様子のおかしい2人を怪訝そうにドガが見ているのに気がつき、彼らは慌てて笑顔を繕った。


「ドガさん、これはこれは大変貴重なものを見せていただきました!」

「ええ、本当に人生で1番凄かったかも!!」

「そういうわけで、この幸せな気持ちのまま帰宅いたします」

「ありがとうございました!!」


 2人はドガに話す機会を与えず、そのアトリエから嵐のように立ち去った。

 そして暗闇が支配する路地裏でバレエシューズが強く発光したかと思うと、その場には人影一つ残らなかった。



 ドミニクは夕飯の匂いで目を覚ました。


「2人とも仲がいいことで」


 戸口に立って母親がニコニコと2人の様子を見下ろしているのに気がつき、彼は飛び起きた。

 手を繋いだ状態で眠っていたので、慌ててその手を離す。


「こ、これはたまたまであって」

「はいはい。シスコンも大概になさいね。夕飯できてるから、ドロテを起こしておいで」

「勘違いするな!!」


 真っ赤になってドミニクが反抗していると、隣でドロテが目を覚ました。


「姉さん、気が付いたか?」

「ドム?……ここは!?」


 急に立ち上がったため、立ち眩みしたドロテの体をドミニクは支えた。


「元の時代に戻ってきたよ。母さんが夕飯だって」

「またあ?」


 ドロテが怪訝そうにするが、ドミニクは「仕方ないだろ。時間が違うんだから」と姉を説得した。


「それもそうね」


 そう言って、ドミニクの部屋を出て行こうとしたドロテがくるりと急に彼の方を振り返った。


「何か?」

「この現象、ドムは何か知っていたみたいね?やけに冷静だったもの。ちゃーんと、私に後で説明しなさいよ?」


 ドガにバレリーナの説明を求めた時と同じ目で見つめられ、ドガが断れなかった理由をドミニクは体感しつつ「はい、姉さん」と答えて仲良く2人で食卓についたのだった。


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