第6話 オペラ座

 ドミニクが目を開けると、そこはオペラ座の観客席だった。

 数度、祖父に連れられて来たことがある彼はすぐにわかった。

 辺りを見渡してから自分の服装に目をやると正装になっていることに気がついた。

 舞台が少し近く、それなりに良い席だ。

 ガヤガヤと煩い上の方をふと見ると、まさにがそこにいた。


「姉さん、姉さん」


 隣でぐったりしている姉の肩を揺すると、彼女は目を徐に開けた。


「ここは?」


 自宅でないことに気がついた姉は飛び起きたが、ドミニクがそれを抑えた。

 小声で二人は会話する。


「オペラ座みたいじゃないか?」

「にしては妙ね。新しすぎるわ」


 ドロテが装飾を指差して言う。


「いや、それは別に妙じゃない。時代を遡ったんだ。一体ここはいつなんだろう?」

「何を言ってるの?」


 酷く混乱する彼女を落ち着かせようとしたら、隣に座っていた男が怪訝そうに彼らを見て言った。


「煩いな。ブザーが聞こえなかったのか?」


 そう言われて二人が辺りを見渡すと、いつの間にか劇場は明かりを落とし、静まり返っていた。


「すみません……話に夢中になっていて気がつきませんでした」


 男はふんと鼻を鳴らすと、舞台へと目をやった。

 すぐに彼らには興味を失ったようだ。

 その男の視線は上手から登場したバレリーナに釘付けになっている。


「エトワ……」

「エトワールだわ!!」


 ドミニクが言うよりも先に興奮したようにドロテが言った。

 バレエ団で主役級を踊るダンサーの中でも、特に花形のことをエトワールと呼ぶ。バレエ団には7階級があり、その階級を上り詰めた、言わばバレリーナの憧れ的存在である。


「やっぱり彼女だけ衣装が格段に違うもの!!妖精が舞ってるみたい!!綺麗ね〜〜」


 ドロテがうっとりしながらバレリーナを見る。

 その声にまた男が物言いたげにじっとドロテを見た。

 その視線に気が付いたドミニクはそっとドロテに耳打ちし、彼女は慌てて口を抑えた。


 その後、公演は順調に進みエンドロールを迎えた。

 拍手と歓声を送る観客にまたしても妖精のような礼で応えたエトワールにその場の皆が酔い痴れた。

 憧憬の溜息をドロテが漏らしていると、隣の男が席を立ちながら言った。


「お前たちは何か勘違いしているようだな?余程の田舎者か、阿呆だな」

「どういう意味ですか、それは」


 不愉快そうに眉を顰めながらドミニクが壮年の男を睨み付けると、その男は口の端を歪めて笑った。


「付いてきたまえ」


 そう言い終えると、その男はそそくさと扉に向かって階段を登り始めた。

 残された2人は顔を見合わせたのち暫しの間、その男の背中が扉の奥に消えるまで呆然と見ていたのだった。


 ドミニクらが会場を出ると、例の男が外で待っていた。


「やっと来たか」


 そう言って、その男はまた一人で歩き始めた。

 階下へ行くようだ。階段を下っていく。

 慌てて2人もそのあとを追いかける。


「お前たち、名前は?」

「ドミニク・モローです」

「ドロテ・モローです。姉です」

「モロー?どこかで聞いた名だな。まあ、有り触れた家名か。……私はエドガー・ドガだ」

「は?」


 ドロテの返答に、ドガが眉を顰めた。


「なんだ?」

「い、いえ……」


 ドミニクが苦笑いしながら姉を肘で小突く。

 姉は小声で「ごめん」と謝りながらなんとかその場を繕った。


「か、かの有名な画家の方と同じ名前ですので、つい吃驚いたしまして……」


 ドロテはほほほと笑いながらそう言うと、ドガはなんとも言えない表情をしながら言った。


「恐らくそれは私のことだ」

「は?」


 本日何度目かわからない姉の失態にドミニクはこめかみをひくひくさせながらも、平生を保つように努力した。

 ドロテもまたやってしまったと顔を青褪めさせていた。


「4年程前、キャピュシーヌ通りにある写真家ナダールのスタジオで展覧会を開催したんだが、世間には散々扱き下ろされたよ。特に批評家ルイ・ルロワが酷くてな。あいつのせいで『印象派』だとかなんだとか言われるようになってしまった。私は自分のことを印象派とは認めないがね」


(初回印象派展のことを言っているのか)


 ドミニクは美術史を頭の中で呼び起こす。

 初回印象派展は1874年にキャピュシーヌ通りにある写真家ナダールのスタジオで開催された。

 ドガはそれを4年程前、と言った。

 つまり、は1878年ということになる。

 1878年にドガが描いたとされる有名な絵は『踊りの花形(エトワール、又は舞台の踊り子)』が真っ先に思い浮かぶ。

 それに、オペラ座と呼ばれるガルニエ宮は1875年1月5日に落成式が行われていたはずで、ドロテが「新しすぎる」と指摘した点とも合点がいく。


(そうか、俺たちは今、1878年にいるのか)


 ドミニクは一人納得していると、いつの間にか階段を降り切ったようだった。

 フロアは人でごった返しており、バレリーナが正装に身を包んだ人々に囲まれながら談笑している様子が目に飛び込んできた。


「今日の演技を褒めてるのかしら?」

「どうだろう……」


 バレリーナの笑顔にぎこちなさを覚え、その光景にどことなく違和感を抱えながらもドガについていくと、彼はある扉の前で立ち止まった。


「ここは……?」

「楽屋さ」


 彼はそこに立ったまま、扉を開けようとしない。

 フロアとは少し離れているため、喧騒は遠くその場は静まり返っていた。

 やがて、中からガタンという音が聞こえてきた。


「なんだ?」


 ドミニクがノブに手を掛けようとしたところをドガが制止する。


「やめておいた方がいい」

「なぜです?」


 ドガに問い正そうとしたところで、女の嬌声が聞こえ、続いて喘ぎ声が断続的に聞こえてきた。

 ドロテが気分悪そうに耳を覆う。


「こういうことだよ」


 ドガはそう言って、無表情のままその場を去ろうとした。

 ドミニクは咄嗟に彼の袖を捕まえた。


「なんだね?」

「えっと……」


 咄嗟の行動だったので、言葉に詰まっているとドロテが言った。


「ちゃんと、説明していただけますか?」


 彼女の目はまっすぐにドガの目を捉えており、離す気配が一切なかった。

 一瞬ドガは面倒臭そうに顔を歪めたが、ドロテが引く気がないことを悟ると「いいだろう。ついてきなさい」と言って再び歩き始めた。

 こうして3人は煌びやかな劇場を後にしたのだった。


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