第3話 水の庭

 ドミニクはまだ霧が濃い庭を散歩していた。

 昨晩からモネの邸宅に宿泊することになった。


 ひんやりとした空気が朝だということを否が応でも思い知らされる。

 大陸のずっと東にある島国、日本の芸術に老人は傾倒しているらしい。

 ぷかぷかと浮かぶ睡蓮の池には太鼓橋がかかっており、ぼんやりと浮き上がっていた。


「おはようございます」

「……」


 ご老人は絵を描くことに熱中しており、ドミニクには気づかなかったようだ。

 彼は気まずい気持ちになりながらももう一度声をかける勇気はなく黙ってその場を去った。


 昨晩、ドミニクはずっと考えていた。

 この時期にモネがいた場所といえばフランスはパリ郊外北部に位置するジヴェルニーだ。

 と、なればここはかの有名なモネの庭だろう。


(確か大装飾画に取り掛かるために大きなアトリエを建てているはずなんだが……)


 少なくともドミニクの可視範囲にはそのような大きなアトリエは見当たらなかった。


 適当に食べていいと言われていたため、青色で統一されたキッチンにあったフランスパンにイチゴジャムをつけて、牛乳と共に食しているとモネが部屋に入ってきた。

 所々服が絵の具で汚れている。


「何でキッチンで立ちながら食べているんだ?リビングで食べればいいじゃないか。あと、そういえば、今日は娘のブランシュがパリから帰ってくる」

「では、俺はどこか別のところへ行った方がいいのでしょうか」

「宿代なんてあるのかね?」

「ぐうの音も出ませんな」


 お決まりになりつつある会話にモネは顔を綻ばせる。


「お前さんのことは友人の孫あたりとでも紹介しておくから問題ないさ」

「ありがとうございます……あの、付かぬ事をお聞きしますが」

「何だね」

「どうしてそこまで見ず知らずの人間に優しくしてくださるのですか?」


 モネは豊かな顎髭に手をやりながら唸ったかと思うと答えた。


「ううん、お前さんから死のがするからかな」

「死のにおいですか」

「うむ。私も立て続けに大切な人を亡くしたので、わかるんだよ。それに……」


 老人は窓の外に目をやった。

 吊られてドミニクも窓の外を見る。


「大体、何かの死は光を際立たせる。お前さん、池の水に光が反射した時、眩しいと思わんかったか?」

「そういえば……」


 老人が本物の画家、印象派の巨匠クロード・モネかを確かめるべく絵を覗いた時、そんな印象を抱いた記憶がドミニクにはあった。


「死に魅入られている者の感想だよ、それは」


 ドミニクは背筋がぞくっとするのを感じた。

 怯えた様子の彼にモネは朗らかに笑う。


「なに、恐れることはない。自然の中にいれば死は訪れるものさ。死が訪れるということは人間もまだ自然の理から外れちゃいないってことだ。ただただ私たちはその理の中にいる。それだけのことだな」


 まだ17歳のドミニクには難解で、意味を正しく理解できたかはわからなかった。

 だが、死は恐れるものではないし、生と共にあるということは何となく理解した。


(死のにおい……じいちゃんが死んでショックを受けてたからかな)


 気づかぬうちに塞ぎ込んでいた自分を指摘されて驚いた。

 光の画家は伊達に長年光と連れ添ってきたわけではないらしかった。



 昼食を終え、カウチで微睡んでいた時、扉が開く音が聞こえた。

 モネが外から帰ってきたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。

 がさごそと複数人の足音と話し声、それから物が置かれていく音が聞こえてきた。


「何事ですか?」


 ドミニクが寝ぼけ眼を擦って音の方へと寄っていくとそこには白髪の混じった、しかし凛とした眼差しの女性が立っていた。


「あら、あなたがお父様の仰っていた客人の……」

「ドミニク・モローです」

「モロー……」


 何か思い当たる節があったようだったが、一人で納得したようで「私はブランシュよ。ちょっと荷物を運んでいるの。手伝ってくださる?」とドミニクを引っ張っていった。


 辿り着いた先は正面玄関で、そこにはたくさんの苗が置かれていた。


「これは……?」

「睡蓮の苗よ」


 確かに言われてみれば睡蓮だった。

 しかし、薄紅色でもクリーム色でもない赤色の花を咲かせていた。


「珍しいでしょう?赤色の睡蓮よ。つい最近、品種改良されたと発表されたばかりなの。パリで早速買い付けてきたのよ。お父様がきっと喜ぶわ!!」


 ブランシュはニコニコと嬉しそうにしながら、苗を荷車に積んでいく。

 ドミニクもそれに倣って積む。


「これはどこまで運べば?」

「水の庭まで」


 ブランシュと一緒に苗を運んでいくと、既に数人の体格のいい男たちがいた。

 庭師だという。


「それじゃあ、旦那さん。ここら辺に咲かしたいと?」

「そうだ」

「おい、ミシェル、その苗はここに植えてくれ」

「はい、親方」


 モネが庭師と既に相談を始めていたようだ。

 ブランシュとドミニクに気がつくと軽く手をあげた。


「おお、お前さん。悪いね」

「いえいえ。ここに下ろして大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ。お疲れ様」


 ブランシュはそう言って、いつの間にか手に持っていた水筒をドミニクに渡す。


「暑いでしょう。夏だもの。喉乾くでしょう?」


 ドミニクは差し出された水筒から遠慮なく水を飲み、返すとそれをそのままモネに渡した。

 ドミニクは途端に恥ずかしくなった。


「これから赤い睡蓮を描かれるのですか?」

「うーん、まあ……」


どこか歯切れの悪いモネに首を傾げているとブランシュが耳打ちをした。


「お父様はあまり制作過程やどうするつもりかを明かしたがらないのよ」

「なるほど」


(そういえば、本で読んだことがあるような無いような……)


ドミニクが悶々としている間にも着々と睡蓮の苗は植えられていく。

日が暮れる頃、全ての苗を植え終わり、庭師たちは帰っていった。


「明日、また来てみましょう。きっと日の光をいっぱい浴びた赤い睡蓮は一味違うわ」


ブランシュの浮き足立った声色にモネも嬉しそうに頷く。

ドミニクはそんな2人を見てつい笑みが溢れるのだった。

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