二話 切り裂き魔の危険な遊戯! ①

 首にコルセットを捲いた、痛々しい姿の蜥蜴男――土竜むぐらもちひとしの心は暗く沈んでいた。


 松葉杖を頼りに、文字通り重い足取りで長い廊下を歩く。任務を失敗した言い訳を、あれこれ考え続けいると、気分はさらに重くなる。


 握りしめたてのひらは汗にまみれ、口の中はカラカラに乾く……そろそろ“中年”と呼ばれる世代に差しかかってきた男は、年甲斐もなく、今にもその場から逃げ出したい衝動に駆られていた。



 気づくと彼は、『所長室』のプレートが掲げられた扉の前に立っていた。


 意を決してノックすると、返答もないまま静かに扉が開く。深々と頭を下げた男は、おずおずとその中に足を踏み入れた。


 勤続八年目にして初めて訪れた所長室だったが、先ずはその広さに驚く。扉付近には秘書の女が机に向かい、パソコンを眺めながら慣れた手つきでキーボードを叩いている。


「ああ、お疲れさま。そのまま、こっちに入って来てくれ」


 その声に眼をやると、部屋の中央にはマホガニーの大きな執務机が置かれ、その奥でスーツ姿の男が背を向けて座っていた。


「そんな身体なのに、わざわざ出向いて貰って悪かったね、土竜くん」


 男は土竜に背を向けたまま、振り向きもせずに感情のこもらない労い文句を発する。


「申し訳ありません、新所長。この度は思わぬ邪魔が入り……」


「そうだね。仕方ないよね? んだものね?」


 土竜の言い訳を遮るように、男は強い口調で言葉を被せた。その不遜な態度に土竜の全身は硬直し、言い訳を続けることができなくなってしまう。


「土竜君。僕がもっとも忌み嫌う言葉は何なのか、キミは知っているかい?」


 突然の質問に土竜は何も答えられず、ただ口をパクつかせていた。


「……?」


 虚ろに目を泳がせるだけのそんな態度に、男は深い溜息をく。


「よく、覚えておいたほうがいい。『失敗』という二文字だ。それをキミは、一日に何度も繰り返してくれたんだよね?」


「も、申し訳ありません……」


「これが、新任早々の所長ぼくに対する嫌味でないとしたら、いったい何なんだろうか……? うん、あれだ。キミは、とても疲れているのかもしれないね。少し、働き過ぎなんじゃないのかな?」


 凍りつくような言葉を次々と浴びせられ、土竜の全身からは妙な汗が噴き出してくる。


「い、いえ、所長。どうかもう一度、チャンスをいただきたい……この通り、お願いいたします」


 土竜はその場に跪くと、頭を床に擦りつけて必死に懇願した。


「彼の有給は残っているのだろう? どうなんだい、佐伯さえき君?」


 相手の土下座などまるで眼に入っていないかのように、秘書に土竜の勤怠状況を確認させる男。


「社員No.2150B09……土竜仁さんの有給残日数ですが、今年度はすでにありません」


 女性秘書、佐伯さえき真紀奈まきなの冷淡な声が室内に響く。


「そうなんだ。だったら、特別に慰労休暇を付与しようじゃないか? ねえ、佐伯君。それならば構わないだろう?」


「社内規定では、年次有給休暇以外の長期取得可能なものとして、産前産後休暇、生理休暇、看護休暇、介護休暇、慶弔休暇、災害休暇……となっております」


「土竜君、ご家族は皆さんご健在かな? たまには家族サービスっていうのも悪くはないと思うよ。まあ“働き過ぎ”に関しては、僕にも責任の一端を感じているんだ。ここは何かしらの理由をつけて、私から二週間くらい“お休み”をプレゼントしようじゃないか。ああ、それと今朝の事故の件だけれど、なんとかこちらで処理しておいたから、キミは何も気にしなくてもいいからね。じゃあそういうことだから、もう下がって貰って構わないよ。お疲れさま」


 床に頭をつけたままの土竜は、男の変わらぬ態度にどんな言い訳も通じないことを悟った。ようやく頭を上げて立ち上がると、全身の力が抜けていくような最悪の気分が彼を襲い、軽くめまいを起こす。


「それでは……し、失礼いたします」


 肩を落としながら部屋から出て行く土竜に対し、男は相変わらず背を向けたまま無言で見送った。


「まあなんにしても、あの人はここまでだね。作戦の失敗よりも、事故のもみ消しの方が会社ウチにとっては手痛い損失だ。佐伯君、彼のデータを処理しておいてよ」


「解雇理由は、“二週間の無断欠勤”ということで、よろしいですね?」


 モニターに『土竜仁』の名前が表示されると、佐伯真紀奈はすべての項目にチェックを入れていく。男の返事を待たずにリターンキーを押すと、下段に『確認/実行』の文字が表示される――数秒後には、土竜仁に関するすべてのデータがモニター上から消えていた。


「それと、あれだ。北広島から誰か……鎌鼬かまいたち君がいいかな? うん、彼を呼んでおいてくれないか」


「畏まりました」


 男に言われがまま、佐伯は眼の前にある電話機をオンフックにして電話をかける……それが繋がると、受話器を取って先方に用件を伝えていく。


 電話相手と会話する彼女の声を聞き流しながら、男は徐に椅子から立ち上がった。窓に歩み寄ると、ブラインドの隙間を広げて外を眺める。


 窓の外は、ススキノのネオンが眩いくらいに煌めいていた。


「今日も、世界は平和だ……今度ばかりは、たとえどんな犠牲を払ってでも、この穏やかな時間を持続させたいものだね」



         ☆



 ベッドに横たわる草薙くさなぎ遥夏はるかは、窓から差し込んでくる陽の光で眼を覚ました。


 酷く身体が重い……頭は覚醒していても、途方もない倦怠感が彼女の全身を抑え込んで、直ぐには起き上がれそうもない。


 謎の男たちによる襲撃から逃れた少女たちは、夜が明ける前にこの屋敷へ辿り着いた。空き部屋に案内されてからは、そのまま滞在し続けている。


 来栖くるす玲子れいこに促されるがままベッドに倒れ込むと、その後の記憶はない。どうやらカーテンを閉める余裕もなく、眠ってしまったようだ……眩しさを我慢しながら、遥夏は再び瞼を閉じる。


 前日から続く災難に、彼女の全身全霊が疲れきっていた。そんな状態にあっても、枕に顔をうずめたまま、これまでのことを思い返している。


 深夜に襲って来た男たち。兄の死と謎の組織との関係。さらには、来栖玲子の正体など……考えれば考えるほど、疑問は膨れていく一方であった。


 そんな折、微睡の中で扉をノックする音が聞こえて、彼女の思考を強制的に停止させる。


「……はい」


 上半身を起こした遥夏がそれに応えると、ノックの主だった玲子が扉を開けて顔を覗かせた。


「起きてる? ちょっといいかしら」


 言いながら部屋に入ってきた玲子は、ベッドの端に腰を下ろすと、心配そうに少女の顔を覗き込む。


「おはよう、遥夏。少しは眠れた?」


「うん、もうぐっすりと……それよりも、ここはどこなんですか? 来た時はまだ暗くて、よくわからなかったんだけど……」


「ここは、私が働いている職場の上司……その人の屋敷よ」


「職場の? そんな所にお邪魔して、大丈夫なんですか?」


「まあね。そんなことより、もう起きられる?」


「あ、うん。大丈夫」


「それじゃあ下に朝食の用意ができているから、顔を洗ったら着替えて降りていらっしゃい。洗面所とトイレは廊下を出て左の端よ」


 そう伝えると玲子は立ち上がり、部屋を出ていった。ようやくベッドから下りた遥夏は、重い身体に鞭打って着替え始める。


 玲子には気づかれずに済んだが、先ほどから煩いくらいにお腹の虫が鳴いていたのだった。



 部屋から出た遥夏は、改めてこの屋敷の大きさを知ることになる。


 長く伸びた廊下の片側には、同じしつらえの扉がずらりと並び、避暑地によくあるペンションのようにも思えた。


 身支度を整えた少女は、言われた通りに一階へと向かう。絨毯張りで間口の広い階段を降りると、執事と思しき燕尾服姿の初老男が玄関ホールで待ち構えていた。


「おはようございます。草薙遥夏様……で、ございますね。ダイニングルームにて朝食をご用意しております」


 はぁ……と、曖昧な返事を返した遥夏は、執事に案内されるまま食堂に向かう。



 通されたダイニングは広く、二十人ほどの会食が可能なものであった。中ほどの席では、すでに朝食を済ませた玲子がひとり、コーヒーを手にしながらタブレットを操作している。


「こちらにどうぞ」


「あ、どうも……」


 遥夏が戸惑っていると、執事から玲子の真向かいの席を勧められた。


 間もなく食事が運ばれてくる……が、少女は直ぐには食事に手をつけず、眼の前へ出されたプレートを暫くの間無言で眺めていた。


「どうかした?」


 その様子を見かねた玲子が、軽く首を傾げながら尋ねる。


「昨日、襲ってきた人たちが何者なのか教えてください。玲子さんは、奴らの正体を知っているんですよね?」


 視線を眼の前のプレートに向けたまま、遥夏はずっと頭の中で渦巻いていた疑問のひとつを口にした。


「民間の警備会社しかない神威かむい恋問こいといならいざ知らず、ここは札幌ですよね? だったら今朝のことだって、警察に届けたっておかしくないじゃないですか。お願いです……玲子さんが知っていることを何もかも、全部私に教えてください」


「……」


 少女の思いに圧倒されて、玲子は言葉に詰まった。思案の果てに、彼女の重い口がゆっくりと開かれる。


「そうね……わかったわ。食事が終わってからでいい? 遥夏に会わせたい人もいるから、この件はその時に話しましょう」


 玲子はそれだけを言うと、口を噤んで席を立つ。


 遥夏もそれ以上は何も問いただすことをせず、ようやく食事を口へと運ぶのだった。



2020/10/15改稿☆

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