◆3

 『遺書』を読み終えると、指で字面をなぞってみた。章乃の息遣いが伝わってくるかのようだ。文字は終わりに近づくにつれ、次第に乱れている。

 もう一度目を閉じる。これをしたためたときの章乃の姿が瞼に浮かんでくる。

「辛かっただろうに」

 目を開けると、もう一通の手紙と見比べてみた。同じ日付だ。

 『遺書』と『最後の手紙』を封筒に戻すと、二通を重ねて日記帳の横に並べた。椅子に深く体を沈め、腕組みをし、ぼんやりとそれらを見つめる。

 窓ガラスが揺れる音がする。ふと、そちらに目を向けると、窓外は日が暮れかかっている。ゆっくりと立ち上がり、窓際まで歩み寄った。

「風が強まったな」

 空を望むと、雲の動きが速くなっている。そのまましばらく雲が流れる様を眺め続けた。

 ──もうあんな所まで……

 ──あそこが過去で、あの先が未来、というわけか……

 健祐は雲の軌跡に時間をなぞらえた。

「二十年。こんなに遠くまで……」

 一秒なんて、あんなに短いのに、積み重なればとてつもない長さになる。時の流れの早さに改めて驚いた。

 あの日、幸乃から『遺書』を渡され、読んだ。健祐は章乃に近づこうとした。寸前に、章乃と文に生かされた。そしてようやく、あの夏休みのホームでの章乃とのやり取りを思い出すことができた。章乃と初めての口づけを交わした直後の。

「健ちゃん。もし、もしも私がこの世から……もし、私が死んだら、どうする?」

「僕も、あとを追う。アヤちゃんひとりだけを死なせはしないよ」

 一度も「好きだ」なんて口にしたことはなかったが、章乃と一緒に命を全うすることこそが「好きだ」という証であり、究極の愛だと信じて疑わなかった。

 章乃を列車に乗せ、こちらに振り返った途端、激しくかぶりを振って「ダメ、ダメ、絶対にダメ!」と章乃は叫んだ。ドアが閉まって列車が動き出してからも、健祐を見つめたまま、目にいっぱいの涙を溜めていた。健祐は列車の速度に合わせて、ホームの端まで章乃を追って見送った。

 それが、健祐が章乃を見た最後となったのだ。

 章乃はドアの向こうで叫んでいた。健祐にその声は聞こえなかったが、口元を見れば何を言っているかは、はっきりと分かっていた。

「健ちゃん、生きて」

 なぜあの日まで、十年間も思い出せなかったのかは分からない。無意識のうちに拒絶し続けていたのかもしれない。ただ、章乃を追い詰め、あんな嘘までつかせ、遺書まで書かせてしまったのは自分だと、ずっとあとになって気づいた。

 健祐は思う。

 あのとき、もし、あんなことを言わなければ。「自分もあとを追う」なんて口にしなかったなら。章乃を看取ってやれたのかもしれない。心穏やかに逝かせてやれたのかもしれない。自分の心ないひとことが章乃を苦しめた。今思えば、何て思いやりに欠けていたのか、とそれだけが悔やまれてならない。残酷なのは、自らの死を隠し通した章乃の優しさではなく、ほかならぬこの自分自身の浅はかで幼稚な言動だったのだ。罪深い自分が無性に腹立たしくなる。今となってはなす術もないことだが。

 ──生きるとは?

 思いを受け継ぎ、温め膨らませ、次の世代へと確かにつなぐ行為なのかもしれない。人はそれを未来永劫繰り返してゆくのだろう。そうして、思いは永遠に生き続けることになる。

 章乃をしのぶとき、ふとそんな風に考えることがある。無論、真の解答など存在せぬ問いかけだろうが。人生の旅路の果てに辿り着いたとき、どんな答えが得られるのだろうか。章乃が授けてくれたこの宿題を、かけがえのない家族と過ごすなかで、問い続けてゆこうと健祐は思った。

「青春と決別して、初めて本当の生を知る。本当の愛を知る」

 『遺書』にあった言葉を口にしてみる。

 健祐は視線を窓外から机の上に向けた。

 また机の前まで来ると、椅子に座り、日記帳を手前に引き寄せる。ペンケースから万年筆をつかむと、キャップを開け、握り直した。

 そのまましばらく日記帳を見つめ、ゆっくりとページを捲る。白紙のページが次々と健祐の目の前を過ぎ去った。ようやく最後のページに辿り着くと、そこに書き添えるのだった。


   *


君の面影を求めつつ          

いつしか今になった


だから、今、言うよ

君が『好き』だったと


永遠に、僕の心を伝えよう

もう逢えぬ君に


そして想い出は

心の奥に仕舞っておこう       

夢が覚めぬように



         晩秋


   *


 日記帳を閉じ、ペンを静かに置くと、健祐は机の引き出しを開け、書類封筒を取り出した。

 二通の封筒と日記帳を重ね、章乃が映った写真と共に書類封筒の中に入れ、封をした。そして、机の引き出しの一番奥に仕舞い込んだ。

 もう二度と開けることはないであろう。

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