◇12

 瞼の裏に映像が次から次へと移り変わっていった。

 母と過ごした人生が再び蘇る。母はミシンを踏んでいた。章乃が声をかけると、振り返ってくれた。縫い上がったものを高々と掲げる。

「やっと仕上がったわ」

 真っ青なビロード生地のワンピースだった。母はそれを見つめ満足げな顔だ。優しい母の横顔が自分に微笑みかけている。その表情に章乃の気持ちもほぐされてゆく。

 公子も満面の笑みでこちらを見ていた。章乃は公子を抱きしめながら詫びた。

「キミちゃん、ごめんね。でも、健ちゃんのこと、頼んだわよ。お願いね」

 夕刻のまどろみの中に見た夢が脳裏をよぎる。社殿の前にひれ伏す女性は自分の姿だと気づいた。

 正夢だったのか。運命の時の流れに、逸れることなく乗っているのだと章乃は悟った。

 ──もう少し先だと思ってた……

 ──今日がそのときだったのね……

 健祐が笑っている。笑い声が聞こえる。健祐は誰かと向かい合わせに座っていた。健祐の前に座す女性は健祐の妻だと分かった。妻は章乃ではなかった。子供の声もする。皆、幸せそうに談笑している。微笑ましい家族団らんの光景に、章乃も思わず笑みを漏らした。よかった、と章乃は安堵した。

 章乃は天を仰いだ。眩い光が射していた。温かく、身も心もとろけそうな程心地良い光だ。そこに近づきたいと願った。その瞬間、既に全身が光に包まれていた。体は軽くなり、次第に解き放たれてゆく。

 誰かが章乃の名を呼んだ。声を聞いていると、胸の奥まで温もりは浸透し、心は一層穏やかになる。何と慈愛に満ちた響きだろう。声の主は目の前に立っていた。

「お父さん。そんな所にいたのね」

「こっちへおいで。幸せになろうね」

 章乃は頷いた。だが、十分に幸せだった。精一杯生き抜いた証が、自分にはある。それが章乃には誇らしかった。ほかに何が要るというのか。

 ──心を解き放つ時が来たのよ!

 最早、章乃を縛りつけるたがは外れた。今、この身は自由だ。章乃は健祐の傍へ行き、そっと抱き締めると、健祐に手を振り、母の傍に立つ。

「お母さん、お願いね」

 母に健祐の幸せを託して、また父の元へ戻った。父の顔を見つめ、微笑んだ。

「もういいのかい?」

 満面の笑みを見せ、深く頷くと、父に寄り添った。父はこの体を包み込むように抱き締めてくれる。章乃が幾度となく夢見た父の温もりである。章乃の心は満たされる。

「みんな、ありがとう。お母さーん! 健ちゃーん! わたし、幸せよー!」

 章乃は父のかいないだかれながら、笑顔のまま大きく手を振って叫ぶのだった。


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