◆11

 健祐は、まだ章乃の亡骸の上にすがりついている。

「死んで生かす」

 確か、文はそんなことを言っていた。章乃の愛に報いるべき。生ある限り生きなければならない。残された者の義務。頭の中で文の声が響く。

 もう一度激しくかぶりを振った。そんなことなど到底受け入れられる訳がない。章乃の死によって自分だけが生かされるなど、ただの戯言たわごとに過ぎない。章乃と自分の生命の灯はひとつなのだ。章乃の傍へ行くのが、愛に報いる唯一の手段だと疑わない。

 ──俺には、章乃しかいないんだ!

 ──残された者の義務だなんて、残酷過ぎる!

 さっき、確かに、章乃の声が聞こえた。あれは幻聴なんかじゃない。

「健ちゃん、生きて」

 それとも己の心の叫びなのか。いや、そんなはずはない。健祐はいつでも覚悟していた。死など怖いものか、と。全てを失った者にとって、そんなことは当然だ。

「アヤちゃん、どうして、あんなこと言うの。アヤちゃんの傍へ行くのがそんなに悪いことかい? アヤちゃんしかいないんだよ、僕には……」

 ゆっくりとその場に起き上がり、膝を突いた。「なぜ、そっちへ行ってはダメなの? また、独りぼっちになれと……?」

 頭は混乱し、最早何も考えられない。ただ、章乃に会いたい一心だった。

 健祐は立ち上がった。石段を下りると、その場にしゃがみ込んだ。突然、胃のあたりから何かが突き上げ、胸がむかついた。口の中いっぱいに苦いものが込み上げてくる。堪え切れず健祐は嘔吐した。何度も何度も息ができないくらい、胃の中が空っぽになっても尚繰り返した。

 ようやく治まると、ふらつきながら社殿横の崖の上まで歩き、そこから下を覗き込む。

「アヤちゃん、アヤちゃんの傍へ……」

「健ちゃん」

 また声が聞こえた。健祐は振り返った。

「生きて!」

 人影が近づいて来る。自らも声のした方へ近づこうとしたら、既に誰かが目の前に立っている。

「アヤちゃん!」

 突然、左頬に痛みが走った。もう一度、またもう一度。

「しっかり、して!」

 声の方を見下ろした。目の前に誰かの顔が見える。輪郭はぼやけ、正体はつかめない。

「だれ?」

 また頬に痛みが走った。

「しっかり、してー!」

 その人影に両肩をつかまれ、揺さぶられた。

「フミ……ちゃん?」

「なんで……なんで、章乃さんの気持ちが分からないの!」

 文は泣き叫んだ。

 小柄な文に腰辺りを抱き締められ、思うように身動きが取れない。

「アヤちゃんの……気持ち……」

 虚空を見つめ、呟いた。

「そうよ。章乃さんが、なぜ、あなたに自分の死を隠し続けたと思うの!」

 文はまた強く抱き締めた。「あなたに生きる力を与えたかったのよ! なぜ、分からないの!」

「生きる……力? 僕に……」

 目の前の風景が霞んで見える。

「生きなきゃダメ! 分かる?」

 健祐は下を向いた。彼女の体温が、その額から健祐の頬へ伝わった。自らの目の焦点が文の濡れたまなこに合う。

「フミちゃん、離して」

「イヤーッ!」

 文は力いっぱい叫んだ。密着した文の声の振動が健祐の胸を伝って全身を共鳴させた。健祐はしっかりと文を見つめる。

「フミちゃん、離して」

「ダメ!」

 文は激しくかぶりを振って、また一層力を込めて抱き締めてきた。

「分かったから」

 文は健祐の体に腕を回したまま決して離そうとはしない。

 健祐は文の体をそっと抱き寄せ、腕を背中に回すと、左手で文の頭を後ろから優しく撫でた。俯くと、文は瞬きもせず、健祐の目をじっと見つめている。

「イヤッ!」

「もう、分かったから。大丈夫だから」

 それでも文は力を緩めない。

「ダメ、ダメよ! 死んではダメ!」

「僕、疲れたよ。あそこまで連れてってくれない? 座りたい」

 健祐は石段を指差した。「もう、しない。約束するよ」

「本当に?」

「ああ、どうかしてた」

 健祐はもう一度文の顔に視線を向けた。

 文は健祐の胸に顔を押しつけて嗚咽し始めた。全身を密着させたまま、小柄なその体が小刻みに震える。

「約束するのね!」

 文は念を押した。

「約束する。絶対にしない。あそこまで頼むよ」

 文は少しだけ力を緩めた。

 健祐は文に抱きかかえられるように石段まで移動すると、そこに腰を下ろした。

 文も横に座ると、健祐の左腕に自らの両腕を巻き、しがみつく。

 二の腕が締めつけられ、痛みが走った。健祐は微笑みながら右手で文の腕をさする。

「フミちゃん、痛いよ。腕がちぎれそうだ」

 文は少しだけ力を緩めてくれたが、決してその腕を解こうとはしない。引き寄せようとする力が勝り、健祐の体は文の側へなびく。錨を下ろした船のように、その場に繋ぎ止められた。

「思い出したんだ」

 健祐は穏やかな口調でそう切り出すと、文に夢の話を語り始めた。


   *


「それで、章乃さんは、夢の中でなんて言ったの?」

 ようやく落ち着きを取り戻した文は、いつもの明るい表情をこちらに向け、尋ねる。その優しい眼差しに健祐の胸は痛んだ。

「健ちゃん、生きて」

 健祐は文の手を握った。「フミちゃんが、あのとき叫んだのと同じだった」

 文は健祐の話を真剣な面持ちで聞いてくれている。

「私が……言った?」

「ああ、そうだよ」

「私が、立花さんのこと、『健ちゃん』って言ったの?」

「覚えてないの?」

「あのとき、無我夢中だったから。『生きて』って叫んだのは覚えてる。だけど、『健ちゃん』だなんて……」

「本当に聞こえたよ」

 文の視線は一旦健祐から離れ、しばらく自らの足元に移された。もう一度健祐の目に注がれたとき、力強い光を放っていた。

「そうかもしれない。たぶん、章乃さんの口調を真似したのかも。私、章乃さんのこと知らないけど、咄嗟にそうしたのね……きっと」

「二度目に聞いたとき、引き戻されたんだね」

「二度目? 私、一度しか叫ばなかったわ」

「一度? そんなはずは……丁度この場所で。この石段の上で聞いたんだ」

「変ねえ。私、ここに来たとき、立花さんが崖の上にいたから、飛び降りるんじゃないかと思って……」

「おかしいな……」

 健祐は首を傾げた。

「本当に、二度聞いたの?」

「本当だよ。はっきりと」

「……やっぱり……」

 文はしばらく黙り込んだあと、声に力を込めた。「章乃さんの声だと思うわ」

「アヤちゃんの? まさか、ここには……」

「いるわ、絶対に! 章乃さんが立花さんの傍を離れる訳ないもの」

 文は健祐の言葉を遮って強い口調で言い切った。

「本当にフミちゃんじゃないの?」

「違うわ」

「不思議だ。確かに聞いた」

「章乃さんが守ったのね、きっと。章乃さんは生き続けてる。今も尚、立花さんを愛しているのよ。思いは、生き続けるのよ」

 ──思いは生き続ける……

 健祐は章乃の『遺書』を思い出した。今、文が口にしたことを章乃も綴っていた。

「フミちゃん、分かったよ。ごめんね、心配かけて」

 文はゆっくりと首を横に振った。

「私、章乃さんに会ってみたかった」

「でも、アヤちゃんは……」

 健祐はその先の言葉を飲み込んで急に立ち上がり、文に手を差し出す。「さあ、帰ろうか」

「ええ」

 健祐が差し出した手を握り返すと、文も立ち上がった。

 二人は石段を下り、その場を離れようとした。文は健祐が脱ぎ捨てた上着を拾うと、肩に羽織らせてくれた。袖を通しながら、ふと振り返り、石段を見る。

 ──あの場所で、章乃は……

 ──章乃は……

「フミちゃん」

 自分の数歩前を歩いていた文を呼び止めた。

「どうしたの?」 

 文が振り返ると、もう一度、視線を章乃が横たわっていた場所に移し、じっと見つめ続ける。

「アヤちゃんは、死んだ」

 健祐はきっぱりと口に出して言った。と、胸の奥から今まで抑えていた感情の波が押し寄せ、体が震え出す。突然全身の力が抜け、その場にくずおれて地面に手を突いた。すると涙が溢れ出し、健祐はむせび泣いていた。最後には、子供のように泣きじゃくった。

「アヤちゃんは、死んだ! 死んだんだよ!」

 健祐は右手で拳を作り、地面を何度も叩いた。「辛い! ああ、苦しいよ!」

 文は健祐の正面に回ると、健祐の肩越しに体を包み込むように抱き締めてくれた。健祐は文を見上げ、その胸に顔を埋めていつまでも泣いた。そうして、文の温もりだけを全身で感じ取った。

 辺りはいつしか薄暮に覆われつつある。風は相変わらず吹き荒れ、健祐の体を容赦なく突き刺していた。


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